2024年04月30日( 火 )

【経営教訓】タカギ中編:苦難の少年から、幸福なカリスマへ タカギ、1,000億円売却という事業承継の真相~高城寿雄・“カリスマ経営”の結末~

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(株)タカギ

 1,000億円弱でファンドへの売却が報じられた浄水器・散水機メーカーの(株)タカギ。高城寿雄は一代で同社を築いたカリスマ経営者だが、身内に頼りながらいつかは切り捨てる彼が送った苦難の少年期と、60歳を超えてついにタカギが急成長を遂げるなか、幸福な寿雄のなかに頭をもたげる破綻の予兆を見る。2839号掲載の『前編:兄弟創業編』の続編。文中敬称略。

苦難の少年期 秘められた思い

 高城寿雄は3人兄弟の次男として1938年、現在の北九州市門司区に生まれた。41年、父・幹が戦死する。母・清子は国鉄の門司鉄道教習所に勤めながら、女手1つで子ども3人を育てた。しかし、生活は苦しく、寿雄は6歳のとき、子どもがなかった母方の実家である愛媛県新居浜市萩生の伯父の家に養子に出される。兄の憲市と弟の泰男は糸島の大原(現在の福岡市西区今津の大原海水浴場近辺)にある父方の実家に疎開している。

寿雄と母・清子(1938年)
寿雄と母・清子(1938年)

    憲市と泰男が疎開した父方の実家は裕福な地主農家であった。各人用に箱膳が用意され、ふたりは食事の際、使用人らよりも一段高いところに座って、主人ら家族と一緒に食べた。また、夏には伝馬船に乗ってサザエを獲ったり、ボラを釣ったりして楽しく遊んだようである。戦後、母と兄弟は、寿雄が養子に行った新居浜を訪れている。しかし、父方の実家とは対照的に貧しい生活が印象に残ったようである。小学生の寿雄は、田植えの時期は学校を休んで農作業の手伝いをせねばならず、また養父母は子育ての経験がないためか躾に厳しく、寿雄の体には灸や叩かれた痕が見えた。

 寿雄はそのような生活に耐えかねて、2度、養家からの脱走を試みている。1度目は小学生のころ、列車で町を出ようとしたところを駅で捕まった。2度目は中学2年生のとき、今度は追跡を避けるために最寄駅ではなく、逆方向の駅まで歩き、そこから列車に乗り本州四国連絡船で瀬戸内海を渡り列車を乗り継いで門司まで帰ってきた。早朝、母・清子と兄弟2人が寝ていたところ、戸をドンドンと叩く音が聞こえる。3人が起きて戸を開けてみると、そこに逃げ帰ってきた寿雄が立っていた。それ以来、寿雄は愛媛に帰らなかった。

 寿雄は門司に帰ると猛勉強して進学校である門司高校へ入学するが、まだ養家から籍を抜いてもらえなかったため、「真鍋」という姓で登校する。しかし、だいぶ素行が悪かったようである。高校2年時に物理の実験器具をバラして問題になる。寿雄は退学し、私立豊国高校に転校する。そこでは進学校からの中途転校ということでいじめられたが、負けん気の強い寿雄は、空気銃を改造し、弾が出ないかわりに硫黄で派手に火を噴いて見せる銃をつくって喧嘩で高校の番長にぶっぱなし、危険人物と見なされて敬遠された。ほかにもラムネ瓶にカーバイドを詰めて水と反応させる破裂爆弾をつくり喧嘩相手の家に投げ込むなど散々である。後処理には清子と父代わりの憲市がそろって頭を下げに行くこともしばしばだった。高校在学中は大学進学を目指していなかったが、卒業後に受験勉強を始めるも神経性の潰瘍になって入院、回復後に予備校の水城学園に入寮するなどしたが、結局、進学をあきらめた。

 母の清子は、そのような寿雄のことをひたすら不憫に思い、責任を感じていたようである。寿雄が事業を始めたとき、清子が兄弟に対して、「寿雄を助けてやって欲しい」と懇願した背景である。前編で見たように、創業期に兄弟らの助けがなければ寿雄の事業は成り立たなかったが、後年も寿雄はそのことに触れず、自著や数多のメディアでも基本的に自分のことしか語らなかった。そのような我の強さに、カリスマ経営者の素質が表れているとも見えるが、その一方で、もう1つ深い悩みを抱えていた。子どもに対する思いである。

 寿雄は1度目の結婚の際、子どもができなかった。夫婦で不妊治療に通い、その原因が自分にあることも自覚していた。しかし、寿雄は子どもをもちたいという思いをどうしてもあきらめることができなかった。妻は不承であったが、10年の別居を経て離婚が成立する。寿雄が大学に入学して東京で暮らしていたのは別居期間中である。また、寿雄は社内で内々に相談している。「自分の子どもを産んでくれる女性はいないか」。相談を受けた役員はある女性を連れてきた。寿雄より22歳若い。結婚してもよいという。ふたりは結婚し、北九州の著名な産婦人科医院での不妊治療を経て子どもを授かった。寿雄63歳であった。

寿雄の手を離れて タカギは羽ばたいた

 同時期、タカギの経営はかなり厳しかった。1990年ごろに浄水器事業を開始、95年に浄水器「みず工房」を開発する。寿雄は浄水器ビジネスがカートリッジの定期交換で高い利益率になることを予想し、100億円事業になると自負していた。だが売上は苦戦した。当初、浄水器も散水機と同様にホームセンターで販売したが、ライバル他社との棚獲りに勝てなかった。営業力が強い大手他社の浄水器がまず並び、そのカートリッジが横に並ぶ。タカギの商品もしばらくは置いてもらえるが、すぐに棚落ちしてしまう。すると、カートリッジが常時買えない浄水器には顧客は付かない。その後、直販を試みて訪問販売なども行うが、経費がかさむばかりで売上はまったく上がらなかった。

 99年末に画期的な蛇口一体型浄水器「みず工房EX」の販売を開始した。蛇口の内部に浄水器が内蔵されたスタイルは単にデザインが洗練されているだけでなく、一度顧客に売り込めばキッチンに固定されるため定着率が高く、カートリッジの交換で高い利益率が見込める。しかし、同商品の開発には20億円ほどの費用をつぎ込んでいた。当時、タカギの売上は50億円程度であり、最終利益は5,000万円に満たなかった。タカギは2001年ごろに債務超過に陥っていたとみられる。02年12月には資金繰りに窮して一時的に生産工場の操業停止も起こす。主力銀行の福岡銀行を残して、他行は退く姿勢を見せていた。銀行をつなぎとめるために事業継続に向けた具体案を示さなくてはならない。

 そこで寿雄が頼ったのは再び身内だった。兄の長男、寿雄からすると甥だが、ジョージ・ワシントン大学でマーケティングを勉強し卒業したばかりでアメリカで働いていた。販売戦略を専門的に学んだ甥を呼び戻して後継抜擢することで事業改善案とし、銀行をつなぎとめようというのである。だが、それだけでは足りない。タカギが早急に必要としているのは、営業戦略を立て直す即戦力だった。そこで浄水器の市場開拓を委ねるスペシャリストとして登用したのが、大阪に本社を持つ大手キッチンメーカーの元役員・川山陟だった。川山は「みず工房EX」を見て商品力に確信をもった。川山は古巣のキッチンメーカーをはじめとしたキッチンルートでの販路開拓を指導する。これまでも営業で、マンション施工への採用を狙ってデベロッパーやゼネコンへ直接売り込みをかけていたが、すでに強固な取引関係を築いている既存メーカーに太刀打ちできない。そこで戦略として、マンション施工へのシステムキッチンの採用が主流になるなかで、タカギの蛇口一体型浄水器をシステムキッチンの付加価値として認識させ、キッチンメーカーに部品として入り込ませる戦略を取った。利益はカートリッジの定期交換でついてくる。業界を熟知した川山の人脈と指導で、デベロッパーとキッチンメーカーへ二方面から営業・接待攻勢をかけ、テレビCMでタカギの浄水器をブランディングし、キッチンの販売施工ルートへねじ込みをかけた。これがタカギの起死回生の戦略になった。

 浄水器事業の最終目標はカートリッジの直販である。よってカートリッジの卸は決して行わない。キッチンメーカーなどから絶えず卸の催促があったが、卸を強いるメーカーとは取引の解消も辞さなかった。これがタカギに高収益ストックビジネスを実現させた。

 また、部品メーカーでありながら、施工後の顧客に対するアフターサービスの直接対応を率先して引き受けた。初期は商品の完成度が低く、水漏れに対する修理対応がたびたび必要だったこともあるが、顧客のアフターサービスを直接受けもつ姿勢は、浄水器の供給先であるキッチンメーカーやデベロッパーの支持を得て、取引先との関係強化と販路開拓時の強みになるとともに、カートリッジ直販で直接顧客となるエンドユーザーとの顧客接点を強化した。

 そのような戦略の結果、タカギはほぼ蛇口一体型浄水器のみに特化したメーカーでありながら、代理店を介さない顧客接点の確保に成功し、直販ルートによるストックビジネスと膨大な顧客情報という強力なビジネス資産を確立した。

 「みず工房EX」の販売が開始された2000年前後の売上高は50億円程度、浄水器事業を始めて10年程度経過していたが、売上のほとんどはノズルファイブやホースリールといった散水機事業である。ところが20年後、20年3月期の売上高は268億円で経常利益率12.3%、セグメント別では散水機事業が57億円で同3.9%、浄水器事業が206億円で同21%、金型事業(吸収された旧高城精機)が5億円で利益は赤字である。
 モノづくりのタカギは、寿雄がつくった「みず工房」を、営業力で売りさばく会社へと転換し急成長を遂げた。

中央に寿雄、ベトナム工場稼働(2009年)
中央に寿雄、ベトナム工場稼働(2009年)

カリスマの黄昏 執着と焦燥

 タカギは急成長企業として注目を集め、寿雄は数多のメディアに出て、成功の物語としてモノづくりと発明への情熱、そして大学・大学院への進学を語った。同時に寿雄の愛息も成長していった。寿雄に訪れた幸福な時代であった。会社は大きく変わったが、寿雄が語ることは90年代とあまり変わっていない。しかしそれは会社にとっても好都合であった。寿雄は発明家であり、カリスマ経営者であり、「モノづくりのタカギ」というブランディングの象徴であった。それは社外への広告としても社内統治にも利用された。寿雄自身も最後まで「モノづくり」を自分の会社の本質と信じていたようである。すでに会社は若い世代がひっぱっていた。ふたりの甥を専務と常務に昇格させたのは13年、すでに寿雄は75歳になっていた。

 実質的に経営を任せた寿雄の執着は2つの問題に絞られていった。新社屋建設と事業承継である。事業承継とは経営を任せている甥への承継ではない。自分の愛息への承継である。寿雄がつくった会社ならびに特許などの利益の仕組みまで含めた所有権と経営権をすべて愛息に継がせるということである。それは寿雄個人の秘めた想いではなく、60代にしてようやく授かった我が子への公然の愛として誰の目に見ても明らかに溢れ出て、タカギの幹部でも共有された経営方針の骨子であった。

 寿雄は大学を卒業した1996年に、タカギの資産管理会社となる(有)寿通商(2014年株式会社化)をつくった。それ以降、寿雄が発明した特許の権利者として主に寿通商が設定される。寿雄は15年ごろのプロフィールでは所有する特許ならびに実用新案を海外分も含めて180件以上と記載している。J-GLOBALで検索すると、特許公報だけで98件に上るが、そのうち11件には共同発明者として愛息・寿太朗の名前も記載されており、最も古いものは16年8月に出願されたもので寿太朗は当時14歳である。

 また、16年のタカギの株主保有比率を見ると、寿通商39%、寿太朗22%、寿雄19%、甥の専務と常務がそれぞれ3%、それ以外は1%以下である。寿通商は寿雄の支配下にあり、実質、寿雄がタカギの議決権の過半数をもつことになる。だが、会社の所有権の継承もさることながら、経営権をいかにして確実に寿太朗に継承させるか、これが寿雄にとって最も悩ましい問題ではなかったか。

 18年、寿雄が代表会長に、甥の専務が代表社長に就任した。このとき寿雄は80歳、寿太朗は17歳である。経営を指導している40代の2人の甥は、あくまでも中継ぎである(それは本人たちも認識しているはずだ)。寿太朗が30代半ばあるいは20代後半になるまで中継ぎをさせて、代表権を譲らせればよい。「しかし、もしそのとき自分(寿雄)がすでにいない場合、彼らはすんなりと寿太朗に経営権を渡してくれるだろうか?」寿雄は会社の本質は「モノづくり」にあると信じていたが、実際は寿雄が理解できない営業戦略で会社はけん引されており、すでに会社の中心が自分にないことを、どのような気持ちで見つめていただろうか。

 19年末、寿雄は認知症の兆候と診断される。20年4月、コロナの流行によって、寿雄は自宅に併設された社員クラブ「もみじ荘」で執務を執ることとなった。実質的に会社から隔離され、限られた人のみに囲まれた生活を送り始めた。愛息・寿太朗はコロナによってアメリカへの留学が延期になった。

 限られた人間関係と健康不安のなかで、寿雄の焦燥が事態を急展開に追い込んでいく。

【寺村 朋輝】


<COMPANY INFORMATION>
代 表:高城 いづみ
所在地:北九州市小倉南区石田南2-4-1
設 立:1979年11月
資本金:9,800万円
売上高:(22/3)306億6,574万円

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