2024年05月04日( 土 )

55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(6)経営教訓(1)

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    ここまでの連載を通じて読者にお伝えしたかったことは、大事な家族が病気になったとき、病名の確定を速やかに行うことがいかに重要かということであった。実際、これが遅くなればなるほど病態は悪化し、打つ手を失っていくのだということは、読者の皆さんにもよくお分かりいただけたことと思う。医者に遠慮していては身内を殺してしまうことになる。こちらもあらゆる手を講じて、病名を確定させることが肝要である。評判の専門医師に出会えるまで、あらゆる人脈に頼ることが戦略的に大切になる。あらゆる策を講じても良いではないか!あとで悔やまないためにも。

 私は悔やみ続けている。悦子の病死の遠因には、私の経営判断ミスがあったと確信しているからだ。経営者たる者、判断ミスは一種の宿命として背負わねばならない存在であるとはいえ、筆者があるお粗末な選択をした結果、悦子を死に追いやってしまった。創業してから20年間は、経営は意外にも順調であった。大きく後悔するような舵取りをすることはなかった。だが、故人を取締役から退任させた決断は、愚策の以外の何物でもなかった。最悪の選択であったと反省している。ここから始まる連載後半戦は、経営を手がける読者諸氏への教訓としてまとめてみる。

薩摩女であったが

 葬儀での挨拶にて、私は「悦子は私にとって経営の同志でありました」と述べた。いろいろな意味でそう言えるのだが、まずは物事に動じない性格だったことが印象に残っている。1976年8月、筆者は建売住宅を申し込んだ。帰宅して「家を買ってきた」と伝えたところ、返事は「いつ現地を見に行きますか?」の一言のみ。家を買うことについて、事前に打ち合わせをしたこともなかったので、こちらとしては小言の一言二言も覚悟していたのだが、すっかり拍子抜けしてしまった。 
  
 また、94年8月のことである。勤務していた会社を退職し、「会社を興すよ」と事後報告を行ったが、平然と応対してくれた。むしろ、「いよいよ事業ができるのね」と、嬉々としていた。度胸云々の話ではない。「長年の夢を実現することができるようになった」と、喜びに浸っていたのだ。「事業を興して大丈夫かしら」などの不安は、一切抱く女ではなかった。筆者と結婚したのも「自立できる経営をやりたい」と切望していたからである。薩摩の女に対して、世間では「甲斐甲斐しく男を支えるもの」という既成概念が罷り通っているが、それは大いなる間違いである。連れ合いを利用し自分の夢を成就させるほどの、強い意志の持ち主であることを知るべきだ。悦子の「薩摩の女」たる一面は、次号で紹介したい。

同志をスカウトする

 悦子はもともと、学校の同窓会に出席することは好きではなかった。ところが、筆者が会社を興すと打ち明けた94年8月、珍しく鹿児島の中学校の同窓会に参加したと思ったら、なんとそこで大物をスカウトして帰ってきたのである。その人材とは、当社の初代専務を担ってくれた中尾勉氏であった。「急いで面接してください」と、悦子はいつにない強気で迫ってきた。彼女の言い分は次のようなものであった。(1)情報発信および売上に関しては、直さんに安心して任せられる。(2)経理は私で十分だという自信がある(彼女は税理士資格の勉強をしていた。三科目合格していた)。(3)ただ、懸念するのは、組織マネージメントのプロがいないことであった。この面での人材補強が必要である、と。彼女はそこまで、設立させる会社の将来を描いていたのである。先見の明のある、高い能力をもつ妻であった。改めて惚れ直した。単なる「内助の功」のレベルをはるかに超えている。「自分も会社設立に参画した以上、これを成功させてみせる」と、闘志を燃やしていたのだ。

面接合格 別次元の経験者

 早速、翌9月に延岡に飛んだ。筆者の身内にもたくさん旭化成の勤務者がいる。筆者の姉の旦那である義兄も同社勤務であったが、よく勉強していた。社員に学び続けることを奨励している会社であることを知った。中尾氏も経営マネージャーとしてすばらしいキャリアを積んでいたようだ。義兄とは延岡時代、同じ職場であったらしい。何回か義兄の自宅に呼ばれ、姉の手料理で歓待を受けたこともあったとのこと。 

 中尾氏の経歴をひと通り聞いた。自分の歩んできた道とはまったく違う。事業立ち上げに結集する連中は、みな情報屋の同僚たちばかりである。組織のルールづくりにおいて戦力になるプロがいない。同氏に託せば間違いないという確信を得た。中尾氏は延岡で鍛えられ、東京に転勤した。47歳になって延岡に戻ってきた。面談当時は50歳、子会社スーパーの専務をしていた。「自分のキャリアを経営に活かしてみたい」という強い情念をもつ人物であった。

 「いかがですか?福岡にきて、一緒に新会社立ち上げに参画してくださいませんか。出資もしていただき、ぜひ、専務として辣腕を振るってください」と誘ったところ、一言で片づいた。「お願いします」の一声であった。同氏は早速、94年12月に福岡へ移ってきた。彼の活躍で、会社の業務規約はもちろん、細かい社内ルールも世に自慢できるものができたのだ。会社が30年間存続できたのも、資本金1億円と、中尾氏が培ってきた豊かな能力があったからこそと思っている。むろん、「会社立ち上げに足らないものは何か?」と自問自答し、中尾氏のスカウトに尽力した悦子自身は、経営者以外の何者でもない。

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