2024年05月14日( 火 )

多様な特性を内包するエリア・小倉(1)

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北九州市役所(左)、小倉城(中)、リバーウォーク北九州(右)
北九州市役所(左)、小倉城(中)、
リバーウォーク北九州(右)

近世の城下町から明治期以降は軍都へ

 本州から見た「九州の玄関口」北九州市。最盛期から減少傾向にあるとはいえ、いまだ人口91万5,951人(2023年11月1日現在)を擁する九州第2位の都市であり、北九州都市圏および関門都市圏の核都市として多大な影響力を有している。

 その北九州市のなかでも、中心市街地の小倉北区、郊外のベッドタウンの小倉南区と、異なる性格を有しながらも同じ「小倉」の名を冠する2つの区は、1974年4月に分区されるまでは「小倉区」として1つであり、さらに遡れば、北九州市の前身となる五市の1つである「小倉市」であった。2つの区を合わせた人口は38万4,991人(小倉北区18万80人/小倉南区20万4,911人)と北九州市全体の約4割超を占めるほか、とくに北区に行政・経済の主要機能が集積していることからも、「小倉エリア」が北九州市の中心的存在だといっても過言ではないだろう。

 今回、この小倉エリアにスポットを当て、その歴史やエリア特性、今後の開発動向などを探ってみたい。

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 関門海峡を臨む北九州市は古代から交通の要衝であったとされており、小倉南区を中心とした複数カ所で旧石器時代の遺跡が見つかるなど、古くから人の生活の痕跡が見られる。中世・鎌倉時代の小倉エリアは、門司区や八幡東区の一部とともに「企救(きく)郡」として統治されており、その後のとくに安土桃山から江戸期にかけては、主に現在の小倉北区が小倉藩・細川家および小笠原家の統治下に置かれていた。

 小倉藩は、藩庁を置いた小倉城を中心とした紫川河口一帯に城下町を形成。とくに紫川河口近くに架かる「常盤橋」は、鎖国体制を敷いていた江戸期の日本のなかで、唯一外国との文化交流や通商の窓口となっていた長崎に通じる街道「長崎街道」の起点となっていたほか、豊前国・中津藩とを結ぶ中津街道や、筑後国・久留米藩とを結ぶ秋月街道、肥前国・唐津藩とを結ぶ唐津街道、門司・大里宿へ通じる門司往還などの起点にもなっており、「九州のすべての道は小倉に通じる」とまでいわれていたとされる。こうして複数の街道・往還が交わる小倉城下町は、多くの人々や文化・産品が行き交い、往時には相当の賑わいぶりを見せていたようだ。また、城下町では城を中心とした周囲に家来の武士らが住み、さらにその周りに町人街が形成。魚の荷揚市場があった「魚町」や、鍛冶屋が多く住んでいた「鍛冶町」、馬で荷物を運搬する輸送業者が多くいた「馬借町」、ほかに「船頭町」や「米町」などの職業ごとに分けられた当時の町名は、今なお小倉の街中の地名として使われている。

 明治期に入ると、1871(明治4)年7月の廃藩置県によって小倉藩が「豊津県」となった。その後、同年11月には第1次府県統合によって豊前国一帯が「小倉県」となり、76年2月の第2次府県統合によって福岡県に編入された。89年4月には町村制が施行され、北九州市の旧五市の前身となる小倉町、若松村(91年2月に若松町)、八幡村(99年2月に八幡町)、戸畑村(99年6月に戸畑町)、文字ヶ関村(94年7月に門司町)が誕生。99年4月には市制施行により門司市が、翌1900年4月には小倉市が誕生した。

 なお明治期以降の北九州エリア一帯は、九州の最北端であり、関門海峡の南岸に位置する陸・海の交通の要衝という立地から、軍略上および九州北部の経済発展上の要として重視され、近代的な開発が進んでいくことになる。1871年4月には西海道鎮台の本営が小倉に設置(同年10月に廃止され、替わりに鎮西鎮台が熊本に設置)。その後75年4月に大日本帝国陸軍歩兵第14連隊が小倉に設置されるなど、小倉はそれまでの城下町・町人街に連なる商業のまちとしてだけでなく、軍都の性格を帯びていく。

 一方で、1901年2月に日本初の近代製鉄所である官営八幡製鐵所が操業を開始。04年2月には日露戦争の勃発で鉄の需要が急増したほか、終戦後の民間からの鉄需要の増加もあって八幡製鐵所は数度にわたって拡張され、八幡は「鉄の町」と呼ばれる工業都市として飛躍的に発展。一方で、小倉には日本最大級の造兵廠である「小倉陸軍造兵廠」が設置されたほか、小倉市街地の防空を主な任務とした下関要塞が設置されるなど、小倉のまちは軍事基地および軍需工場群としての様相を帯びていった。

 その一方で、1916年に開業した「兵庫屋百貨店」(鳥町/26年に閉店)を皮切りに、20年3月の「かねやす百貨店」(魚町)、32年8月の「九軌デパート」(船場町/後に九軌百貨店へ改称→37年11月に井筒屋百貨店と合併)、36年10月の「井筒屋百貨店」(船場町)、37年4月の「菊屋百貨店」(室町/後に小倉玉屋へ改称)など、小倉の街中には百貨店が乱立。また、31年7月には小倉競馬場が開場したほか、32年7月には北九州エリアで路面電車を運行していた九州電気軌道(西日本鉄道(株)の前身)の創立25周年記念事業として、九軌到津遊園地(現・到津の森公園)が開園し、翌33年10月には遊園地に併設するかたちで動物園も開園するなど、市民の娯楽の場も増えていった。

 だが、前述したように軍都としての性格を強めていた小倉のまちは、第二次世界大戦末期には米軍による空襲の標的となったほか、よく知られている話だが、長崎に投下された原爆の最初の投下目標にもなっていたとされている。仮に小倉市に原爆が投下されていたとしたら、北九州市のその後の発展は、まったく違うかたちになっていたかもしれない。

(つづく)

【坂田 憲治】

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