2024年05月09日( 木 )

経済小説「泥に咲く」(2)ファーストステップ

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。(一社)自立研究会著。

ファーストステップ

 教室には子どもたちの「自由すぎる」声が響いていた。

 智徳学園は1994年、岡倉勢事が三十四歳で開設した、発達障害児を対象とした教育施設である。

 特異な業態への反響は大きかった。福岡の都心部のビルの、約30坪のスペースにオープンした学園は、この分野での私設の教育施設が九州初ということもあって注目を集め、新聞やテレビで何度も取り上げられた。

 もちろん、学園にスポットが当たったのは、発達障害児を抱える親たちが、心底困っていたからだ。何をしてあげれば、その子のためになるのか。常識や一般論が通じない我が子を前にして、親たちはただただ困惑していた。

 知識も経験も理論もなく、しかし放っておくこともできず、預かってくれる人もいない。そんな中、とくに母親にとっては学園の存在が、暗闘のような子育てのなかで初めて見えた光明だった。だから問い合わせは引きもきらなかった。

「障害があるからと言って、学びをあきらめる必要はありません。むしろ、彼らの存在は社会にとって希望なのです。人の才能にはデコボコがあって、とくに発達障がいの子どもにはその傾向が顕著です。だからこそ、彼らにできるところ、得意なところを見つけて、それを伸ばす教育が大切なんです」

 勢事は記者に向かって、持論を展開するたびに、胸のうちにくすぐったさを感じた。掲げる理想は決して嘘ではなかったが、また同時に本心でもなかったからだ。

 作業療法士への転進を決意して入った専門学校で自閉症に対するボランティア活動に携わったのが、勢事と障害児との出会いだった。彼は異形のもの、いびつなものに惹かれる傾向があった。自分自身のなかにも、周りとは違う何かを感じていたからかもしれない。突然大声を挙げたり、奇妙な行動をとる子どもたちを恐れたり、扱いに困ったりする学生が多いなかで、勢事は興味深く子どもたちを観察し、冷静に適切な対応を見つけ出していくのであった。普通の人間と接するよりもずっとおもしろかった。

 卒業後に勤務した福岡市内の病院でも、脳卒中患者らの機能回復訓練に携わるかたわら、発達障害児の治療にボランティアで取り組んだ。いつしか勢事には、この道の専門的な知見と技術が身についていた。

 しかし、勢事の内心は、慈善家のそれとはほど遠いものだった。事業を興したのは、障害児のためでも、その親のためでも、ましてや社会のためでもなかった。いつか、この世界でのしあがるための、いわばファーストステップ。勢事にとって智徳学園は、自分を世に売り出す「道具」だったのだ。

 その目的は、ある程度は達成された。勢事の名は福祉業界のみならず、福岡の経済界全般に知れ渡った。話が聞きたいと、地元財界の大物が、向こうから訪ねてくるといったこともしばしばだった。勢事は光の当たらない弱者のために献身的に働く慈善事業家として、有力者も含めた多くの地元民に認識されたのだ。

 一方で苦悩も抱えていた。経営難だ。入園者は300人を超えていたが、そのなかには母子家庭や生活保護受給者も多く、月謝の3万円を支払えない利用者が続出した。「金が払えないなら来るな」という言葉は、いつも喉元まで出かかったが、子どもたちと母親の顔を見ると、憤る気持ちがへなへなと萎えてしまうのであった。

 勢事の活動を応援してくれる経営者から紹介を受けて、地元の電力会社の総務部長を訪ねたときのことだ。

「あなた、社会福祉の仕事をしているんだって?」

 鋭利なナイフで切り込みを入れたような瞳の、その暗い冷たさが勢事を不安にさせた。

「はい。発達障害児の教育施設を運営しています」
「で、なに? 金を出せって話?」
「いや、私は何も……」
「あのね、私はそういう仕事をしている人を一切、信用していないんですよ。寄付が欲しいなら、他をあたったほうがよい」

 カッと顔の表面が熱くなった。こいつに見下される筋合いはない。握った拳は湿り、そしてかすかに震えていたが、それは怒りのせいでもあり、本質を見抜かれた恐れのせいでもあった。

 勢事には「社会に対して良い行いをしたら、それは還元されるはずだし、そうであるべきだ」という考えが、頭のどこかにあった。社会に尽くすわけだから、社会も自分を大事にして当たり前だ、と。

 しかし現実は違う。自分が選んだことである以上、それがたとえ地獄の道のりとなろうが、すべては己の責任なのである。

「勢事くん、金がないのは首がないのと同じ」

 記憶に残っている、数少ない父の言葉が蘇る。

「確かに今の俺には首から上がない。だからまともに挨拶だってできない始末だ」

 門前払いの帰り道、勢事は唇を痛いほど噛み締めながらそう思った。

 一方で寄付を申し出てくれる経営者も少なくなかった。すでにバブル経済は弾けていたが、その影響が届くまで比較的時間がかかった福岡の財界には、いまだあの熱狂の余波を残す企業が存在した。

「岡倉、おまえ、金がねえんだろう。今夜、中洲のあの店に出てこいよ」

 株式公開で巨万の富を得た創業社長から電話があると、勢事はあらゆる用事を横に置いて駆けつけた。会食の後、手渡される紙袋のなかには時に100万円、時に200万円の札束が無造作に放り込まれていた。勢事は「いつもすみません」とパトロンの後ろ姿を、頭を下げたままで見送るのだった。

 不思議なことに、「今月はいよいよだめだ」と思うと、どこからか金が入ってくる。そして、金が入ると、勢事はそれを酒と夜の女に使ってしまう。頭では「一円でも節約しなくてはならない」というのはわかっている。しかし、金を前にすると、抑制が効かなかった。

「金なんて、使うからこそ入ってくるものなんだ」

 誰から教えられたわけでもない法則は、これが意外と通用するもので、毎晩のように飲み屋街を渡り歩くなかで生まれた人脈が、新たな寄付につながることも珍しくなかった。そして、その金のかなりの割合は、またもや夜の中洲に消えた。

 こうして、光と影を抱えた智徳学園が、毎月の赤字を出し続けながらも三年目に入ろうとするとき、その事故は起こったのだった。

(つづく)

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