2024年05月11日( 土 )

経済小説「泥に咲く」(5)WPW症候群

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。(一社)自立研究会著。

WPW症候群

 丈治が出て行ってから、家には朝子の姉の聖子と、妹の夏子が同居するようになっていた。聖子は家事全般を担当し、朝子は勢事の出産後、ほどなくしてクラブのホステスに復帰、夏子もやはり中洲のクラブで働いていた。

 だから勢事は大人の女3人に対して、家のなかのたった1人の男として育つことになる。叔母たちは甥っ子を猫かわいがりし、母、朝子もひとり親の負い目もあってか、勢事にはずいぶんと甘かった。

 ホステスの出入りも多かった。姉御肌である朝子を頼って、言わば彼女の妹分たちが相談にやってきた。ときには泊まっていくこともある。勢事はホステスに囲まれて育ったと言っても過言ではない。

 こんなこともあった。勢事は女の大声で夜なかに目覚めた。目を擦りながらリビングに行くと、聖子が泣きじゃくる若い女を抱きしめて「大丈夫よ。もう大丈夫」と背中を撫でていた。そこに「どうしたの。何があったと?」と朝子が飛び込んでくる。聖子が答える。

「純ちゃん、お客さんに襲われそうになったって」
「わかった。姉さん、あとは私に任せて」

 聖子と役割を交代した朝子は「一度や二度は必ずあることよ」と重く低いが優しい声で、純ちゃんと呼ばれる女に話しかけた。

「あなたにも隙があったってこと。私たち、これが仕事なんやから、自分の身は自分で守れるようにならなね。あの男は出入り禁止にするごと、私からオーナーに話しとくけん。さあ、お風呂に入ってらっしゃい」

 翌朝、勢事が目を覚ますと、下着姿の「純ちゃん」がテレビを見て笑っている。そんな家だった。

 ともあれ、身の回りのことの多くは専業主婦役である聖子が面倒を見てくれ、経済的にも安定し、また女たちからかわいがられた勢事は、病弱であること以外、母子家庭でありながら何不自由なく育った。むしろ愛情は人一倍、注がれたと言ってもいいだろう。

 経済的な安定という意味で朝子たちを支えていたのは、建設会社の重役だった松田守一であった。少し顎のしゃくれた顔はお世辞にも美男とはいえなかったが、その優しい人柄が目元に現れ、一方で引き締まった口元からは、誠実さと意思の強さが感じられた。小柄で、仕立てはいいが地味なスーツを着た姿は、まさに「脳ある鷹は爪を隠す」を体現していた。

 勢事が小学六年生のときのことだ。家庭訪問の教師の後をついてきた同級生が「岡倉朝子」という表札を見て「岡倉くん、お父さん、おらんと?」と尋ねてきた。勢事はなぜか素直にうなずくことができなかった。そこまでストレートに言わなくてもいいだろう。そう思ったとき、自分のなかに我が家が普通の家庭ではないことに対するコンプレックスがあることを、初めて認識した。

 しかし、だからと言って自らの境遇を恨むような気持ちにはならなかった。中学生になると、片親の友人たちが不良の仲間に入っていったが、勢事は暴力で発散させるべき鬱屈を持ち合わせていなかった。その心の安定の背景には、間違いなく松田の存在があった。

 松田は重役と言っても給与取得者である。愛人のために一定の金をつくるのは、簡単なことではなかったはずだ。勢事はあるとき、松田が家に置いていった封筒の中身を見たことがあった。そこには二十三万円が入っていた。封筒は毎月、律儀にも決まった日に届けられた。

 週末はよくドライブに連れて行ってくれた。松田のドライビングテクニックは高度で、安全運転ながら、要所を締めた小気味の良い運転だった。車なかではなかなか眠れない勢事だったが、松田の車に乗ると、そのジェントルなハンドル捌きに、すぐに船を漕ぎだすのだった。

 勢事が初めて心臓の不整脈を起こしたのは中学二年の時だった。

「ドドッ、ドドッ、ドドドッ、ドドドドドドド……」

 同級生から不意に肩を叩かれた瞬間、心臓がこれまでにない勢いで激しい脈を打ち始めたのだ。何が起こったのかわからず混乱した。このまま死んでしまうのではないか、と恐怖に支配された。

 WPW症候群と診断された。心房と心室の間をつなぐ余計な伝導路が、生まれつき存在する病気だ。

 発作はいつ起きるかはわからない。一カ月もないかと思えば、一日に二度、起こることもある。そして頻脈発作が始まると、これが苦しい。外から見ても、心臓が脈打っているのがわかるほどの激しさだ。すぐに治ることもあれば、数時間、場合によっては半日と続くことがある。

「まあ、これは仕方がない。皆さんね、自分なりの止め方を見つけるみたいだから、いろいろやってみてよ」

 これといった治療法がない時代だったにせよ、医者の軽薄な言葉はどこまでもうつろに響いた。

 生来の治らない病気。いつ起きるかわからない発作。頻脈が起きるたびに、「今度こそ死ぬんだ」と、勢事は何度となく思った。だから死は勢事にとって、比較的近い場所にずっとあった。

 そうした鬱憤もあったのだろう。学校での些細なトラブルをきっかけに、家で荒れることもあった。思春期特有の理由のない反抗だったのかもしれない。叫ぶくらいならばいいが、家の物にあたり出すと、中学生とはいえ、女たちでは押さえつけることはできなかった。バットで窓ガラスを叩き割る程度には激しい荒れようだ。そんなとき朝子は松田に電話をかけるのだった。

 玄関のドアが開いて松田が入ってくると、暴れていた勢事はぴたりと止まる。

「勢ちゃん、どうしたの? 何かあったの?」
「な、何もありません」
「本当に大丈夫?」
「ええ、なんか、ただちょっとイライラしただけで……」
「そうか。それならいいんだけど……」

 松田は決して勢事を咎めようとしなかった。その優しい瞳に射すくめられると、勢事は自分自身が恥ずかしくなるのだった。

(つづく)

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