2024年05月10日( 金 )

経済小説「泥に咲く」(4)男としての自立

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。(一社)自立研究会著。

男としての自立

 勢事の父、岡倉丈治は四国・徳島の出身だ。もともとは日本に一大スーパーチェーンを築いた創業社長を一族に持つ中池家に生まれたが、母方の親戚筋である岡倉家に養子に出されたのである。

 岡倉家は徳島で安政の時代から商売を営んできたが、どれもぱっとしなかった。しかし、丈治の義理の父となった岡倉勢二は違った。

 神戸の商船の専門学校を卒業後に一介の潜水夫となり、そこから身を立て、海底から財宝を引き上げるサルベージ会社『岡倉組』を創業する。「日本のサルベージ王」との異名を取るまでに会社を成長させた後、晩年は政界に進出して、ついには国務大臣まで務めた人物だ。丈治はこの義父にあやかって、自分の息子に同じ名前をつけた。勢事は幼いころから、そのことが重荷で、後に自ら「二」の字を「事」と、表記を変えることになる。

 成人した丈治はすでに政治家となっていた義父の口利きで、日本を代表する光学メーカーの社員にねじ込んでもらった。初めての赴任地が福岡で、倉庫の担当者として働くことになる。

 しかし、もともとサラリーマンが務まるようなたちではない。しかも二十歳を過ぎたばかりの、言わば「盛り」である。悪友と連れ立って夜の中洲を飲み歩くようになるまで、そう時間はかからなかった。

 そこで出会ったのが勢事の母、朝子である。夢路という源氏名で、当時、最も格が高いとされていたクラブ『銀馬車』のホステスとして、ナンバーワンを張っていた。三十三歳の女盛りに一回り年下の丈治は入れ揚げた。その押しの強さに朝子がほだされる格好で、2人は夫婦の契りを交わした。

 ところが、丈治の女好きが結婚くらいでおさまるはずがない。すぐに家に寄り付かなくなり、1円の金も入れない。毎晩のように飲み歩き、女に金をつぎ込む。しかも、ばら撒いていたのは会社の金で、いずれ横領が発覚して解雇となった。使い込んだ金を弁償したのは、丈治の義理の父である岡倉勢二だった。

 勢事が生まれた頃も丈治は家に帰らず、妊娠、出産でホステスの仕事を休まなければならなかった朝子は日々の食事にも困窮した。

「あなたの体が弱いのは、おなかのなかにいた時から、おかあさん、タクアンしか食べれんかったけんよ。それもこれも、お父さんがひどい嘘つきの、ろくでなしやったから……」

 病気がちな勢事が、近くの病院に入院するたびに、朝子はそう愚痴った。

 そのころの丈治には、とんでもない〝伝説〟がある。「博多の伝統的な祭、博多山笠の神輿である『山』を、たった3人で破壊した、そのうちの1人だ」というものだ。後に九州の暴力団を大同団結させることになる男と、組事務所への殴り込みで壮絶な爆死を遂げる男と丈治の3人は、中洲で幅を利かせる飲み仲間だった。丈治が使い込んだ会社の金の大半は、この3人での飲み代と女郎を買う代金となって消えていったのだった。

 この3人、いったい山笠の何が気に食わなかったのか。三十人近い男衆のなかに3人だけで突っ込み、神聖な山に上って狼藉のかぎりを尽くしたというのだ。勢事は叔母たちがこそこそとこのエピソードについて話すのを聞くたびに、「よくぞ、殺されなかったものだ」と思ったものだ。祭の高揚感の渦中にいる男たちが、それでも手を出せないくらいに、3人は殺気立っていたのだろう。顔さえ覚えていない父のイメージは、だから「神輿の上で暴れる男」であった。

 コネで入社した会社を追い出された丈治は朝子と勢事を捨てて大阪へと流れる。そこで新しい家族をつくり、詐欺まがいの健康器具を販売したりしながら、糊口を凌いだ。

 無鉄砲で直情的な性格は、思い込みと押しの強さという面で現れることもある。自ら開発した脳開発プログラムは、時流にも合って生徒数が拡大していった。なにより、丈治が教育論を語れば、母親たちはすっかり魅了され、信じ切った。

 事業は順調に拡大した。丈治は愛人たちを各教室のトップに据え、自らは博士号を〝買う〟などして、己の権威性を高めていった。街のチンピラは、今では立派な事業家であり、教育者であった。

 勢事が金を貸してほしいと連絡したのは、丈治の事業が軌道に乗り始めたときのことだった。200万の金が出せないはずはない。
「あんな男に育てられなくて、本当によかった」

 金の融通を無碍に断られたことへの怒りもあったが、勢事の思いは本心だった。丈治は、もし友人として付き合うならば最高に面白い男だろう。しかし、父親は失格だ。少なくとも自分にとって、父としての価値などこれっぽっちもない男だ。

 そうはっきりと思えたことは勢事にとって、苦境から得た、1つの悟りだった。勢事は父としての丈治を見かぎることで、男としての自立に一歩近づいたのだ。

 それに勢事の心のなかには、父よりもずっと尊敬できる1人の男性がいた。その存在だけで十分だった。

(つづく)

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