2024年05月14日( 火 )

経済小説「泥に咲く」(20)克己心

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ
法人情報へ

 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

克己心

 船越は自らが消費するための多額の金を必要とする一方で、金を汚いものと考える人間だった。金は要る。しかし、自分の手は汚したくない。竹島が医療法人の金庫番となるまで、それほど時間は掛からなかった。

 こうなれば勢事のやりたい放題である。月に300万円の接待交際費をなんのチェックも通さずに使い続けた。もちろん、理事としての500万円の月額報酬も受け取ったうえでのことである。

 ただし、そんな勢事とて、蜜を吸うだけでいられたわけではない。船越には怪しい投資話にすぐに手を出してしまう癖があった。未公開株、競馬の裏情報、カジノ博打にもはまった。毎回、大きな損をするのに、新しい儲け話が舞い込むとどうしても乗ってしまう。下関の病院で人工透析で稼いだ金のうち、詐欺に消えた金は五億、いや六億は超えるだろうと勢事は見ていた。

「岡倉さん、ヤクザに2,400万円騙されて、それがないと僕、ちょっと困ることになるんです。何とか取り返してきてくれませんか」

 そう頼まれたとき、勢事は心底、あきれた。またか。そんなこと、自分で始末しろ。あんたは子どもか。さまざまな言葉が頭のなかで渦巻くが、しかし、この人に倒れられては、勢事としても金づるを失うことになる。ある意味での運命共同体なのだ。

「先生、わかりました。何とかしましょう」

 船越は「信じられるのは岡倉さんだけ」などと言いながら、握った勢事の手を大袈裟に振るのだった。

 勢事はまず山口県警に勤める知人に電話をしてみた。

「俺が経営を見ている病院の院長が騙されたんやけど、どうにかならんかな」
「それ、自己責任でしょう」
「でも、相手は暴力団やろ」
「それは調べてみないとなんとも言えないけど、民事だからそもそも動けない。なんにしても、欲を出したその人が悪いよ。岡ちゃんの親分なら、岡ちゃんが始末をつけるしかないんじゃないの」

 その通りだと思った。悪と悪との戦いだ。だったら、自分が出ていくしかない。船越がやりとりをしたという人物のもとに、勢事は単身で向かうことにした。

 ベンツのカーステレオで、勢事は山下達郎の『SPARKL』を掛ける。軽快なギターのカッティングを聴いていると、重い気分が少しはやわらぐのだった。「そういえばこの曲に、ずいぶん救われてきたな」と、勢事は1人、声に出してつぶやいた。

 旧炭鉱町の県道沿いにあるその“会社”はプレハブの簡易な平家で、ドアを開けると荒れた茶髪の、病的に痩せた女性事務員が出てきて、勢事を簡易なパーテーションで区切られた応接コーナーのソファに案内した。若づくりが痛々しい。細く黒く溶けた歯から、勢事は彼女の過去を想像した。

 事務員が“会長”と呼んだ男がやってきたときは、約束の時間を一時間以上も過ぎていた。60代の中頃だろう。見事に白髪になった豊かな髪をオールバックにしている。やはり白い毛が混じる眉毛の太さが意志の強さを表し、眼光は暴力の世界に生きてきた人間特有の鈍い光を発していた。

「あんた、いい根性しとるな、1人で来るとは」
「犀の角のようにただ1人歩め」
「なんだ、そりゃ?」
「ブッダの言葉です」

 会長は気勢をそがれたようだった。

「おわかりだと思いますが、船越さんの金を返してもらいにきました」
「あんたの親分が悪いんやろ。そう思わんか」
「それは、その通りだと思います」
「まあ、悪いのは親分やから、あんたに言っても仕方ないんやけど。まあ、そんなことやから、もう帰ったらいい」
「いや、帰れません。私は取られたものを取り返すためにここにきていますから。会長には申し訳ないけど、私も腹を決めてます。帰りませんよ」

 勢事は無表情で、堂々と座って、動かない。沈黙を恐れず、視線を固定する。

「あんた、脅しはきかん人やな」
「こういったことは初めてじゃないんでね。私なりにいろいろと経験してきました」
「ふん、それくらいのことは、あんたの目を見りゃわかる」

 勢事が落ち着いていられるのは、1つの持論に支えられていたからでもある。これまで有力な財界人や学者、宗教家に会ってきたし、裏社会に生きる人間を観察する機会も少なくなかった。そうしたなかで、勢事は「この世の中、そんなに『すごい人物』など存在しない」と思うようになった。「山より大きな猪は出ない」というのは真実。ほとんどの人は口だけなのだ。

 だから「どんなにすごい人物だ」と紹介を受けても、動じないし、こうして出会い頭に会う人間の脅しや自分を大きく見せようとする言動に振り回されることはない。少しでも心が動いたら、目の前の男が女の股の間で必死に腰を振っている姿とそのときの表情を想像する。「ほうら、この人だって、俺と同じただの男じゃないか」と、そう思えれば平静が保てた。会長に対しては、そんな想像の必要さえなかったが……。

「ちょっと話を聞いていただきたいんですが」
「いやわしのほうには話すことはないし、金は払わんよ。わし、今から仕事があるから、まだ話があるなら、ここで待っとればいい。いくらでもいていいが、答えは変わらんからな。じゃあ、わし、行ってくるわ」

 会長が戻ってきたのは4時間後だった。勢事は同じ姿勢で座っている。

「やっぱりまだおったか。あんた、ほんとに帰るつもりがないんやな。まあ、いい。俺はもう家に帰るから」

 勢事は翌朝、再び事務所に乗り込んだ。昨日の女性事務員がにやりと笑う。歯の隙間が黒くて、それがいやに目についた。会長の出社は十一時過ぎだった。勢事を見るなり、大きなため息をつく。

「あんたの親分が悪いんやろうが……。馬鹿な欲を出すから、騙されるんや」
「船越にも責任があるのは事実です。でも、会長たちが騙したのも事実でしょう。船越も悪いが、会長たちも悪い」
「喧嘩両成敗っち、言いたいんか」
「まあ、そういうことです。この2日間で会長は柔軟な方だとお見受けしました。船越はこの金がないと、詰んでしまいます。あの男が死にでもしたら、会長、もう二度と搾り取ることはできなくなりますよ。逆に言えば、あれは馬鹿だから、儲け話をもちかけられば、何度でも騙せます。今回、全額とは言いませんので、どうかご配慮を」
「タマを取るぞと言ってもビビらんあんたみたいなのが、一番、タチが悪い。そして、しつこい。手ぶらじゃ帰らんと腹に決めとる。ああ、わかった。半分やるから持ってけ」

 会長は事務所の奥の金庫を開け、そこから千二百万円を取り出して無造作にテーブルに置いた。

「この件はこれで手打ちや。それで……あんた、なんかうまい話があったら、もってこい。お互い、情報交換しようや」
「ありがとうございます。恩に切ります」

 勢事は帰りの車のなかで、200万円を自分の内ポケットに入れた。成し遂げた仕事に比べれば安いギャラだ。1カ月の飲み代にも満たないのだから。そう思うと、船越の脇の甘さに、無性に腹が立ってきた。

 しかし、まだ船越には「うまみ」が残っていた。捨てるのは絞って、絞って、絞り切ってからでも遅くはない。

 勢事はハンドルを握りながら、そのシナリオを、1人思い描くのだった。

(つづく)

(19)
(21)

関連キーワード

関連記事