2024年05月16日( 木 )

経済小説「泥に咲く」(19)やるべき仕事

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

やるべき仕事

 日本ケアユニットの株を売ると、勢事の現金資産は3億円を超えた。余生を生きるには十分な金額だともいえたが、そう思うには勢事は若すぎた。

 自分が育てた会社が人の手に渡ったのは癪だが、まあ、いいだろう。この種銭で何をするのか。どう増やすのか。ゆっくり考えるのも悪くない。そう考えて、しばらくは帝国ホテルで暮らすことにした。本館の16階、角部屋を自分の居としたのだ。

 そこで何をやるのか。何もしない。日中は考えをめぐらし、夕方になると銀座のクラブに出かけて、金をばらまいた。荒れた生活だった。状況は受け入れていたものの、その程度には勢事も傷ついていたのである。

 一方で勢事は孤独には慣れっこになっていた。寂しいという感情を乗り越えたうえで、物事の本質を見極める力がなければ、自立はできないし、事を起こすこともできない。そう考えていたからだ。

 もちろん人間は誰も1人では生きていけないというのも事実であり、そもそも「寂しい」という感情を抱くようにできている。しかし、「周りに人がたくさんいて賑やかでなければ不安で動けない」というならば、自立など実現できるはずがない。だから勢事は勢事なりに、寂しさと闘ってきた。恐れずに立ち向かってきた。

 人と一緒にいるのは、本当は寂しいからなのに、それを「他者のために生きる」といった美辞でごまかす人がいる。勢事は死んでも、そんな人間になりたくなかった。「他者を励みにする」というのは、ほとんどの場合、幻想である。孤独に弱い人が生き抜くために身につけた方便であり、弱さの隠れ蓑なのだ。

 その証拠に勢事が出会ってきた成功者や権力者のほとんどが身勝手であり、自分のことしか考えていなかった。基本的には他者を必要としていないのだ。孤独に強いものが権力者となり、弱いものは「他者を励み」として、結果、食われるという構図が、この世の中なのである。勢事は強い男でいたかった。人に食われる側ではいられない。

 そう思いながら、またたく間に1年が過ぎた。手持ちの金は1億円を切っていた。

「いい加減、何かを始めなければ……」

 勢事は福岡に戻って、仕事を再開することにした。

 まず手をつけたのが、介護業界のM&Aのブローカーだ。日本ケアユニット時代、病院のM&Aを手がけた経験があった。当時、医療系の買収において日本でトップだというブローカーに会ったことがある。山口組系の大物だと聞いていたが、勢事にはハリボテにしか思えなかった。案内されたのは安い居酒屋で、それだけで人物の格が知れたが、部下に向かって「ヤッパ持っていこい」と言ったときは、「虚仮威しにもほどがある」と、正直、失笑しそうになった。

 それでも勢事はこうしたブローカーから情報を卸してもらう方法でしか、売りに出ている病院の情報を知ることができなかったのだ。

「こんなチンケな男たちの下につくような商売はしたくない。いずれはもっと上流で仕事をやれるようにならなければ」

 それは勢事にとって、1つの目標だった。いや、目標という言葉は正しくない。夢を語り、目標を掲げて、社員とともに一致団結して努力していく、といったような経営に、勢事はまったく関心がなかった。

 勢事は人に牛耳られたくなかった。もちろん、尊敬する先輩の言葉なら耳を傾ける。しかし、「虎の威を借る」ような男の指図など、死んでも受けたくなかった。真に自立するためには力が必要だ。力が欲しい。それは時に金であり、情報であり、人脈だった。

 だから目標と言っても、それは他人と共有するような類のものではない。勢事の内側で静かに、密やかに、しかしメラメラと燃えている炎のようなものだった。

 介護業界のM&Aはそれなりの仕事にはなった。業界に蠢く魑魅魍魎のなかで、勢事は交渉相手を恐れることなく、むしろコントロールしていたからだ。相手が老獪だと思ったとき、力で押してくるであろうと感じたとき、騙しにかかっていると見抜いたとき、勢事はその人物の素行調査を探偵事務所に依頼した。

 十日もすれば、表向きがどんなに良く見える人間でも、必ず驚くような一面をもっていることがわかった。人は見かけと本質がまったく違っていて当たり前なのだ。そのことを嫌というほど見せつけられた。

 調査をやってみれば、人間がいかに信頼できないか、誰にでもわかる。「こんな行動をしているくせに、よくもヌケヌケと偉そうなことがいえるな」と憤慨することもあるだろう。しかし、むしろ、信用しているほうが間抜けで迂闊なお人好しなのだ。この世の中、騙されるほうが悪いのだから。

 渡る世間は、嘘つきのろくでなしばかり。「大半の男は盗っ人の詐欺師、女は媚を売る詐欺師だ」と思っておいたほうがよい。少なくとも勢事が存在している世界では、相手を信用することは、即、自らの危機につながる。

 人間の汚い部分をしっかり知ってから、物を言い、行動すべきだと、勢事は常に自分に言い聞かせていた。

 だから相手を食うことはあっても、食われることはなかった。一定の収益は上がったが、ただ勢事が自分の人生を賭けるには、この仕事は描ける絵が小さすぎた。時間潰しのごっこ遊びのような毎日に、勢事はすぐに飽きてしまった。

 船越と会ったのは、そんなときのことだった。山口県・下関の開業医で、自ら院長として経営している病院は一定の利益を出していた。船越はその病院を売ろうと計画していたのだが、交渉していたファンドとトラブルになっていた。□□からの紹介で、勢事が船越に会うと、いきなり「岡倉さん、俺、詐欺まがいのファンドに虐められているんだ。助けてくださいよ」と頼み込んできた。

 勢事はその瞬間、「この男からは相当な金が切り取れるな」と直感した。食い物にして、むさぼり、空になれば捨てればいい。船越は自ら勢事に「病院の理事に就任してくれ」と頼み込んできた。

「船越先生、私のような人間を理事にしていいんですか。乗っ取りますよ」

 その場では冗談として通ったが、勢事は本気だった。

 船越は「ぼくは天才なんでね」と広言してはばからない人物だった。威張る。自慢する。ちやほやされて舞い上がる。

「なんと脇の甘い男なんだ」

 勢事にとっては格好のカモであり、裸の王様だった。

 そもそも自慢話をすることは、自ら墓穴を掘っているようなものである。周りの人間は感心してうなずいてくれるかもしれない。しかし、その人たちは自慢話をする人間の成功や幸せなど、一ミリも願っていないのが実状だ。それどころか、目立つ人間が地獄に堕ちて不幸になることを願っている。

 その事実を知らないのは高慢なリーダーだけである。勢事にとって船越は、周囲に「不幸になりたい」と言い続けている間抜けに見えた。

 実際、これまで勢事が観察してきた、過剰に自信満々のリーダーたちは、みんな潰れていった。図に乗った先にあるのは運の尽きなのである。本物は自分で自分を褒めることはない。それは偽物の証。船越が「ぼくは天才なんでね」と言うたびに、勢事は素っ裸でうれしそうに歩く、愚かな王の姿を想像した。

 一方で、社会的に立場が上がる人、成功を継続できる人の共通点は、冷静で謙虚、それでいて隙がないことだ。若いころから周囲に持ち上げられてきた人は、そんな人格を練る機会を得ることが難しい。その典型が、医者なのである。

 すぐに威張って、自慢してしまう船越のリーダーとしての寿命は、だからそれほど長くないというのが勢事の見立てであった。いかにコントロールして延命し、金を吐き出させるかが肝となる。

 船越は山口県の徳山にも病院をもっていた。『徳山ホスピタル』というこの病院は、もともと半世紀以上も前に企業立の病院としてスタートしたものを船越が買収したのである。さて、この病院も含めて、いかにして食い物にするか。当然、美味い汁を長期にわたって吸い続けるためには、簡単に潰してしまうわけにはいかない。経営改革を実現し、結果を出さなければならないのだ。

 ちょうどいい人材がいた。下関の病院の買収の件で相手方として交渉していたファンドに、竹島という敏腕のコンサルタントがいた。敵といえば敵だとも言えたが、船越が勘違いして、「このままじゃ乗っ取られる」と大袈裟に吹聴していた面もある。竹島は交渉の間も冷静で論理的であったし、かつそこそこ肚も座っているように思えた。あの男ならば、経営を改善できるに違いない。勢事の直感が働いた。

 しかし、勢事が何度電話しても、竹島は出なかった。「俺を恐れているな」と思いながら、その勘の良さにも感心した。竹島にとって勢事は敵にしたくない存在だろう。しかし、勢事にしてみれば、仲間になってくれと伝えたいのだ。勢事は竹島のことを徹底的に調べた結果、恩を売ったことのある医師が、竹島の仲人を務めていたことを突き止めた。

「先生、竹島さんが私の電話に出てくれないんですよ。悪いけど、電話に出るように言ってもらえませんか」

 竹島のほうから電話がかかってきたのは、2時間後のことだった。翌日、銀座の個室のある和食店で膝を突き合わせ、勢事は自分が描いているストーリーを竹島に伝えた。それはいかに船越を食い物にするか、という視点で語られる物語である。竹島はそのアングルを瞬時に理解し、勢事の側につくことを決めた。

(つづく)

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