2024年05月14日( 火 )

経済小説「泥に咲く」(18)渡世のリアル

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

渡世のリアル

 この5,000万円を元手にして、勢事が新たな金づるを見つけるまでに、それほど長い時間はかからなかった。

 勢事はハイハイ商法の会社とは別にもう1つ、介護関連の事業を手がける日本ケアユニットという会社を保有していた。ただ、これは「介護の周辺に金の匂いがする」という勢事の独特の嗅覚によって設立した会社で、明確な目的はなく、実質的には休眠会社だったのだが、ここに「うまい話」が舞い込んできたのだ。

 やはり商社時代の上司に紹介された厚生労働省の高級官僚から、「延命開発センター」を訪ねるように言われた。そこに金脈が眠っているという。話を聞いた瞬間、勢事のアンテナがピンと立った。どんな話が待っているのか、見当もつかなかったが、「金になる」という直感が脳内でほとばしるような感覚だった。

 担当者は役人を絵に描いたような男だったが、もっていた情報はとんでもない代物だった。テーブルに置かれた分厚いコピー用紙の束を、そのまま持って行ってもいい、と言う。それはなんと3年後に実施されるケアマネージャーの資格取得に関する資料で、つまりそこに書かれた内容を理解し、記憶すれば、試験にパスできるテキストとなるものだった。勢事は情報を独占したのである。

 こんなものが、一銭の裏金もなしに手に入ったことを、当の本人である勢事自身が信じられなかった。勢事は商社時代の同僚を社員として雇用し、彼にテキストを読ませ、それをビデオに撮った。ナレーションのプロでもない。セミナー講師でもない。ただの素人が文面を読んだだけの映像に9,800円の値をつけて、全国の大型書店で販売すると、これが飛ぶように売れた。

 セミナーも盛況だった。北海道から鹿児島まで、どこで開催しても千人規模の会場が満席。1人5,000円の参加費で、これもばかにならない収益となった。ペーパーカンパニーだった日本ケアユニットの売上高は、一気に7億円を超えた。なにせ元手のいらないビジネスなので、利益率はとんでもなく高い。金という面では、またもや勢事に我が世の春がやってきたのである。

 翌年、年商20億円を超えるのがみえてきた段階で、笹山から「株式を公開しないか」ともちかけられた。笹山には、事業の元手をつくってもらった恩義がある。勢事は副社長という立場になって、自分の仲間を中心に株主を増やしていくつもりで、笹山もそのプランに同意したので、資本政策は笹山に任せることにした。

 上場準備は着々と進んでいたが、勢事には懸念があった。人が育っていなかったのだ。勢事は常に「事業を成長させるには、じっと待つことが大切だ」と考えてきた。

 人間、屈まなければ跳べないのである。我慢があるから実りがある。屈んだままの体勢でしばらく力を蓄え、様子を見るのがコツなのだ。人材をそろえ、関係性を固めてから、次のステージに移るのが失敗しない鉄則なのである。

 逆に言えば、急いで仲間内を固めようとせず、今の手駒でやり過ごすのが、自分自身の力をつける試金石になる。その意味で、日本ケアユニットは、絶対的に仲間が足りなかった。そんな状態で急いで物事を実行すると、必ず綻びが生じ、元の木阿弥になってしまう。考えて、考えて、考えて、考え抜いて、実践して、また考え抜くというパターンが賢明なのだ。時流や勢いではなく、しっかり計画して実践するのが、結果として早道となることを、勢事は経験則として身につけていた。

 もちろん、思索や思考は、深ければいいというものではない。あまりに深いと、堂々巡りとなり、結果を導き出せなくなってしまう。適度な熟考、熟慮を頻繁に繰り返すのが建設的なのだ。いずれにせよ事業の成長は、忘れるくらいにじっと待つべきであり、「慌てる乞食は貰いが少ない」というのは真実なのだ。

 そんな経営哲学を持つ勢事から見ると、笹山は完全に焦りすぎていた。これは危険信号である。笹山の計画通り、このまま事業拡大を継続すれば、日本ケアユニットはそう遠くない未来に空中分解してしまう。そう考えた勢事は笹山に対して、「少し冷静になって時期を見極めよう」と伝えた。

「岡ちゃん、それじゃあ、他の株主が納得しないよ」
「いや、他のと言っても、大株主は私でしょ」
「いや、もう岡ちゃんの比率は30%を切ってるから」
「え、そんなこと頼んでませんよ」
「株式のことは俺に任せるって言ってたよね」
「と言っても、それは報告を受けながら、私の了承を得た上でのことでしょう」
「わかった、わかった。まあ、大丈夫だから。悪いようにはしない。ただ、株式は公開するよ。俺はそのために入ったんだからね」

 その後も笹山とは議論が続いたが、主張は平行線をたどった。2週間ほど連絡が途絶えた後、突然、笹山からの電話が鳴った。

「岡ちゃん、ちょっと話したいことがあるんだけど、今からお話しできませんかね。ケアユニットのオフィスにいるんですが……」

 いつもより、少しだけかしこまった口調に違和感を覚えながら、勢事は答えた。

「ああ、そう遠くないところにいますので、30分後には行けますよ」

 オフィスに入ると、女性社員の白水が挨拶もせず、まるで勢事を避けるように視線を外す。彼女は看護師で、この会社における勢事の秘書役だった。やはり何かがおかしい。

 ソファに腰を下ろしたところに笹山が入ってくる。

「ああ、急に呼び立ててすみません。白水くん、これ、コピー取って」
 笹山は取締役の1人であり、株主でもあるが、内部の人間ではない。それが勢事の秘書を自分の部下のように使役したのだ。その瞬間、勢事は「やられた」と思った。会社を乗っ取られた、と悟ったのだ。

 「ちょっと待て」と言おうとしたとき、オフィスのドアが開き、弁護士が入ってきて、勢事の両隣に座った。その後ろから株主の1人である井田が入ってくる。老舗の化学品専門商社の創業一族であり、現社長である。勢事はこの男が嫌いだった。他にも3人の知らない男がいて、それぞれが株主だと言って自己紹介をしたが、勢事の耳にはまったく入ってこなかった。のっぺらぼうのような存在感のない薄い顔に見えた。

 井田が咳払いをしてから言った。

「岡倉さん、私たちはじきに臨時株主総会を開こうとしています」

 勝ち誇ったような顔だ。

「そこでは、あなたの解任動議を発議するつもりです。すでに取締役のなかで解任に賛成している人は過半数を超えています」
「なんで私が解任されなければならないんだ」

 まあまあ、と言いながら笹山が微笑みかける。

「白水くん、さっきの資料を岡倉さんに」

 白水は勢事と目を合わさないようにしながら、1枚のコピー用紙をテーブルの上に置いた。そこには勢事が月に200万円以上の接待交際費を使ったことが記されている。

「これは仕事に関連した飲み会で使った金だ。何が悪い?」
「はたして、そんな言い訳が通用しますかね。あなたは会社を私物化している。それが紛れもない証拠です。あなたが社長だとね、この会社は上場できない。出ていってもらうしかないんだ」

 井田が無表情のまま冷たい声で言う。

 戦って勝ち目はあるのだろうか。あるのかもしれない。「なんだこんなもの」と資料を突っぱねて、「改めて出るとこに出て、はっきりさせましょう」と椅子を蹴って出ていく自分を想像してみる。これまでも幾多の修羅場を潜り抜けてきた勢事にとって、それほど難しいことではなかった。

 しかし、それだけの執着が自分にあるだろうか。勢事は自問した。時間のかかる戦いになるだろう。その間、勢事は実質的に会社の経営には携われない可能性が高い。勢事は知っていた。自分こそがこの会社の魂なのだ。つまり魂の抜けた体など、生き続けられるはずがない。勢事が離れれば、この会社はそう長くはもたないだろう。その未来は、ここで抵抗したとしても、変わらないのではないか。そう思った瞬間、戦う気が失せた。

「岡倉さん、名刺を出して、そこに『株は全部売ります』『二度とこの業界に立ち入りません』と書いてください。それで手打ちとしましょう」

 一時は勢事に5,000万円もの金をもたらしてくれた笹山だった。その後も、何人かの経営者を紹介し、それは笹山にとっても金のタネになったはずだ。いわば共犯関係にあったわけだが、しかし状況が変われば、あっさりと敵に回る。それが、渡世のリアルだ。つまりは自分自身が甘かったのだ。

 勢事は黙って、言われた通りにした。46歳の勢事は、一切の地位を失った。

(つづく)

(17)離合集散
(19)やるべき仕事

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