2024年05月03日( 金 )

福岡城の天守再現を考える(1)~高まる福岡城天守復元論と福岡の歴史

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高まる福岡城の天守復元の議論

 福岡城の天守の『復元』をめぐる議論がにわかに熱を帯び始めた。

 福岡商工会議所は昨年10月、福岡・博多の歴史文化を生かしたまちづくりに関する15の提言をまとめて発表した。そのなかで、福岡のランドマークとして福岡城の天守復元を提言した。

 今月5日には、福岡商工会議所を事務局とする「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」が初会合を開いた。復元の機運を高めるため、今後、シンポジウムや公開討論会を開催するほか、市民アンケートも実施するなどして、まずは9月に報告書をまとめる予定としている。

 福岡城の復元については、歴史的な立場や、観光活性化などさまざまな立場から意見があるものと思われる。当社としては、この福岡城の天守に関わる議論を、市民が自らの意思で自分たちの街の景観を決める「まちづくり」の議論として受け止め、福岡城天守の再現について考えたい。

『復元』と『再現』について

 記事中では、理由があって、『復元』と『再現』を使い分けている。後の記事でこれについては解説することになるが、両者の違いを簡単に説明すると、復元とは失われた建物を忠実に元の姿に戻すことであり、再現はかつて存在していたと想像される姿を復元も含めた広い範疇で表現することを含める。

 福岡城の天守をめぐっては、今後議論が進むにつれて福岡城天守における『復元』の意味が焦点になると予想される。そのような議論の行方も射程に入れて、前提となる事柄を数回に分けて案内する。

 まずは福岡城に関わる歴史的経緯を簡単に振り返りたい。福岡市中心市街地のまちづくりは、豊臣秀吉と黒田長政によってその基礎がつくられた。

福岡城下町・博多・近隣古図、出典:九州大学博物館デジタルアーカイブス
福岡城下町・博多・近隣古図
出典:九州大学博物館デジタルアーカイブス

秀吉が復興整理した博多

 博多湾に面する土地は、古代から大陸との交流の拠点の中心地として機能し、大陸からの使節を迎える迎賓館「鴻臚館」が設置された。中世には、博多は日宋貿易の拠点となり宋国人街が形成され、また中国からの帰国僧によって寺社が建立されるなど、経済文化において最も栄えた都市であった。しかし、戦国期になると、博多は諸大名の勢力争いの対象となり、度重なる戦火に焼かれ荒廃した。戦国末期、九州征伐で九州入りした豊臣秀吉は、博多を九州統治の拠点とすべく復興に力を入れ、武士の居住禁止や太閤町割りなど、後の江戸時代から現代に続く博多のまちづくりの基礎をつくった。

長政がつくった「福岡」

 関ヶ原の合戦の勲功として、黒田長政は徳川家康から筑前国を与えられ、旧領の豊前国中津から国替えした。当初、先の領主であった小早川家が築城した名島城(東区)に入城したが、名島城は博多湾に突き出た三方を海に囲まれた海城であり、城下町の形成に不適と判断した長政は、那珂川の西にある那珂郡警固村福崎の地に城郭を築くこととした。

 那珂川の東は秀吉によって復興された博多があったが、対岸にある警固村福崎は寒村の荒地だった。南の鴻巣山(中央区小笹・南区長丘周辺)から大休山(現在の動植物園周辺)を経て博多湾に伸びる丘陵があり、その西側には草ヶ江と呼ばれる入り江があった。

 1601年、長政はこの地で築城に着手し、縄張(設計)は自身が行い、野口佐助一成を普請奉行として築城が進められた。鴻巣山から伸びる丘陵のうち北端部分を残し、南の大休山との間を堀切で断ち切るかたちで、城郭の基礎をつくった。城の北側は潟を埋めて城下町をつくり、西は草ヶ江の入り江を大堀につくりかえ、東は那珂川に通じる中堀と肥前掘(鍋島氏の助力に由来する)が造成された。地名は黒田氏の出自である備前国邑久郡福岡からとって福岡とあらためられ、城は1607年に完成した。ここに城下町としての福岡が誕生した。

(つづく)

【寺村 朋輝】

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