経済小説『落日』(43)欠席裁判1
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谺 丈二 著
特別幹部研修会と称する会議が突然召集されたのは武藤芳人がM県事業に出向して半年後のことだった。その日、朱雀屋の研修センターに関連会社の幹部を始め、朱雀屋の役員、部長が集められた。ところがしばらくして、会場に武藤の姿が見えないことに石井は気付いた。M県事業の役員である武藤は当然、この会議に参加していなければならない。そして、なぜか関連会社部長の佐藤の姿もなかった。
「今日は危機管理と管理責任いうとことで実際に発生した事例を基にケーススタディーを行います」
会議が始まると労組出身の研修所長・大倉隆史が大きな声で言った。
そのテーマと資料を見て石井は思わず息をのんだ。そこにはM県事業の異常な実態が赤裸々に示されていた。「なるほど、そういうことか」
石井は得心した。
「はっきり言って、これは犯罪です」
会議の主催者として司会に立ったのは犬飼だった。
「こんなことは二度とあってはいけません。では、なぜこんなことになったのか、どうしたらこのようなことの再発を防げるのか、皆さんを6つのグループに分けますから原因と結果と責任を、それぞれ討議してください」
「欠席裁判か」
石井は頭のなかでつぶやいた。当然のことながら、有罪は確定している。あとはどんな手で武藤に責任を押し付けるかというだけである。
坂倉の行為は、そのすべてが井坂と犬飼によって認可されていたといっても過言ではなかった。しかも参加者の大部分は、そのことを知っていた。石井は背筋が寒くなるのを覚えた。しかし、怒りより先になぜか苦い笑いがその胸をよぎった。
会場には大阪証券取引所でのさえない決算発表を終えた井坂の顔もあった。今回の決算も無理に無理を重ねている。井坂はいかにも疲れた顔で専務の河田と額を寄せ合って話し込んでいた。白髪混じりの髪の乱れが井坂の重い気持ちを表しているように石井には見えた。
会議の結論は石井の予想通り「武藤有罪」だった。M県事業の専務として管理不行き届きというのがその罪状だった。
討議結果発表のために壇上に上がった各グループのリーダーたちは、口をそろえて武藤の職務怠慢を非難した。ただ、石井だけが個人ではなく、会社全体の責任と暗に井坂と犬飼を批判した。だが、その意見は完全に無視された。
井坂が黒といえば白いものも黒。会議は暗黙のうちに全員にそれを確認させるための儀式に過ぎない。「捻り潰すぞ」
発表を終えて犬飼の前を通り過ぎようとした石井に犬飼が低声で言った。
「遠慮なくどうぞ。でも、考えてみればとうに潰されてはいますけど…」
犬飼の強張ったような真顔に石井は皮肉と笑顔で応じた。
「石井さん、食うためには甘っちょろい正義感は邪魔になる。あんたもそろそろ大人にならんとね」
睨みつけるようなその目を見て石井は以前、犬飼からかけられた言葉を思い出した。
「石井さん、男の価値はカネだ。いかに億のカネをつかむかだよ。カネこそが男の価値だ」
犬飼は、そんな言葉も併せて口にした。
「佐藤さん、一体どういうことなんですか?」
研修会場を出ると石井はすぐに佐藤秀治に電話をした。
「文字通りごらんの通りですよ。私からは何もいうことはありません」
受話器の向こうから佐藤の不機嫌そうな声が聞こえた。
その日、関連会社の役員会での牧下の態度は終始落ち着きがなかった。いつもなら尊大そのものといった横柄な態度でオブザーバー席に座る牧下だったが、この日に限って席を立ったり座ったりと、せわしなく動いていた。
関連会社部長の佐藤がいつもと違って無表情でMC席についている。参加者の表情もどこかぎこちない。武藤が姿を現したのは会議開始五分前、役員全員が席についてしばらくしてからだった。室内の空気が一瞬張りつめたが、武藤はいつもの調子で部屋に入ると笑顔で席に着いた。
「武藤専務が本日付で辞意を表明されています。つきましては、今回が最後の当会議ご出席なので一言ご挨拶をいただきます」
全議題の審議を終えたのち、佐藤秀治が半ば憮然とした表情で告げた。その声を聞きながら牧下が緊張を隠すように数回、咳払いをした。参加者のだれもが硬い顔をしている。
研修会後、本部人事から呼び出され、牧下から管理不行き届きでの減給処分を言い渡された武藤は、それを不服として井坂に辞表を届けていたのだった。
「それでは武藤専務にご挨拶をいただきます」
憮然としたままの佐藤が早口で言った。少しでも早くこの会議を終えたいという牧下の気持ちを見透かしたように武藤はゆっくり立ち上がり、いったん牧下の方を見た後、何か考えるように下を向き、しばらくして顔を上げて口を開いた。その中身は牧下の心配とは逆のごく月並みなものだった。その挨拶を終えると武藤はさっさと部屋を出て行った。
「いやぁ、大したもんだ。いい挨拶だった」
武藤芳人からてっきり内部告発にも似た問題提起があることを予測していた牧下は、ほかの参加者の冷めた表情を尻目に、1人はしゃぐように武藤を褒めた。
「何の問題もありませんでした。うまく始末できました」
牧下は喜び勇んで武藤の辞任を井坂に報告した。井坂はただ黙って頷いた。
(つづく)
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