2024年06月23日( 日 )

バブル時代1期生 サラリーマン「最終」活動(終活)に臨む

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日本的サラリーマンの一生

終活 イメージ    Aは1990年に大手道路会社に入社した。この年、その会社は9月までに全国で30人におよぶ新入社員を北海道に集めた。Aとしては「集団教育」のようなものだろうと思っていたそうだが、まさしく錯覚だった。

 Aは、「思えば(9月までの)6カ月間は、遊びみたいなものであった」と振り返る。新入社員30人は全国各地にバラバラに配置されるので、会社側としてはこの6カ月間のうちに同期組を結束させようと、余興のような待遇でもてなしたのだ。

 この年、求人側(会社側)が面接者に対して卑屈な低姿勢で応対していたことを鮮明に記憶している。「これほど至れり尽くせりとなれば、『甘ちゃん』になって使い物にならなくなるぞ」と罵倒したい気分になったこともある。

 時間の経過は早いものである。Aのサラリーマン生活は34年を数え、まもなく役職定年を迎えることになった。転勤は14回におよび、西日本を転々とした。

 最後の転勤先では支店次長のポストに就いた。若いころのAはしきりに愚痴をこぼす性格だった。サラリーマンになってからも筆者の前で愚痴をこぼしていたが、仕事に対する責任感は人の3倍はあっただろう。現場でトラブルが発生すると自身が先頭に立ち、陣頭指揮を執ってきた。そのため社内での信頼はあつく、高い評価を得ていた。

 Aの父親も勤労者としての典型的な一生を送った。頑固ではあったが、仕事の信義を貫く姿勢には圧倒されたものである。親子2代にわたり典型的な、ある種「日本的な」サラリーマン生活を貫いた見本だと言って良いだろう。

1969年当時の思い出

 ここで筆者の、69年当時の就職活動の記憶が鮮明に蘇ってきた。この年の就職活動組はまさしく「団塊の世代」に当たる。たとえば、就職面接であれば、鹿児島から最初の面接地の大阪に向かい、次に名古屋、そして3番目の面接地である東京へと、全国を渡り歩く。

 面接した3社からは、それぞれ往復の交通費が支給された。その“上前を撥ね”て北海道での2週間に及ぶツアー資金に充てて遊びまくったことも思い出す。

 同期たちのおよそ7割は最初に入社した1社に人生をかけて、サラリーマンとして貢献してきた。50年前と30年前の入社組の行動パターン(終身サラリーマン生活)は、さほど変化がないものである。さて、現代の「サラリーマン人生」はいかようなものになるのだろうか。

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