(株)ドリームグループ
代表取締役社長 吉田登志夫 氏
共に時代の波動を受け止めた者として
1951年生まれの吉田登志夫氏と47年生まれの筆者は4歳違い。65年、アメリカによるベトナム侵略戦争が本格化した。筆者は18歳の、感受性豊かな時期であった。筆者は九州で初めて「ベトナムに平和を!市民連合(通称・べ平連)」を67年10月、鹿児島で立ち上げた。
一方、吉田氏は筆者より5年遅れた70年、同じく18歳のときに水俣病に関心を抱き、72年には患者とともにチッソ本社前での座り込み・直接交渉闘争に支援参加した。ここから、吉田氏の人生、すなわち「理念とビジネスの両立」が始まったのである。
初対面の場での会話は非常に盛り上がった。半世紀前の共通の知人たちの名前が次々と話題に上った。
理念とビジネスの両立とは
「理念とビジネスの両立」とは、簡単にいえば「社会的奉仕や変革の行為」と「ビジネス(つまり、生活の糧を得る行為)」の両立である。
吉田氏は西南学院大学在学中、大学生協の学生理事として活動し、地域生協(現・グリーンコープ)設立運動に74年から参加。さらに82年にはパレスチナ現地支援活動にも従事した。
以降43年間、彼の人生は一貫して「理念とビジネスの両立」を追求する道を歩んでおり、その姿勢に一切の迷いは見られない。
オーガニックブームをつかむ
吉田氏は福岡都市圏のグリーンコープで専務を務めていたが、組織の過度な拡大に異を唱え、92年に退職。その直後、福岡市南区にワーカーズ「産直ショップ夢広場」(現在の「natural natural 長丘本店」)を設立した。
生協活動を通じて、吉田氏は「人の健康は、何を食べるかによって決定される」という信念に至った。当時、オーガニックブームが訪れていたが、それはまだ“価値観”としての流行にすぎず、本格的なビジネスには発展していなかった。理念としての「生活スタイル」の延長線上にあるオーガニックは、そう簡単に商業ベースには乗らなかった。
ここでの吉田氏の決断にこそ、凄味がある。
家族6人でロンドンへ移住
吉田氏には男2人・女2人の4人の子どもがいる。長男・吉田幸一郎氏(前回の福岡県知事選に立候補した弁護士)が中学生のころ、家族6人でロンドン移住を決断した。
「なぜロンドンを選んだのですか?」と尋ねると、「ロンドン、イギリスはオーガニックの本場であり、ビジネス市場も日本の100倍あると見込んだからです」と答えた。また当時、イギリスには5万人を超える日本人が暮らしており、「オーガニック志向の日本人をターゲットにしました」と語った。
動機はともかく、「家族6人でロンドンに渡り、ビジネスに挑む」という決断には、筆者も思わず驚愕した。
子どもたち育成の深謀
ロンドン移住から32年、時は流れ、4人の子どもたちはすでに成人。全員がイギリスの国立大学を卒業し、長男はロンドン・東京・カンボジアに弁護士事務所を開設。このたび、福岡県知事選にも立候補した。次男はグループ会社の経営を担い、娘たちはオーストラリアやアメリカで医師など専門職として活躍している。
「吉田さん、4人分の大学授業料の捻出は大変だったでしょう。相当、稼がられたのでは?」と問うと、「当時、イギリスの大学はすべて国立で、授業料が無料だったのです。だから4人とも進学できたのです」と明かした。
つまり吉田氏は、イギリスの高等教育制度を見越したうえで、家族ぐるみの移住を決断していた。「これなら子どもたちを大学まで育てられる」「イギリス流の紳士・淑女に育てられる」という深謀があったのだ。
ビジネス時代の到来
詳細な経緯については別途インタビュー記事を参照いただきたいが、コロナ禍の襲来は同社にとって一種の女神の到来であった。外出自粛により自宅での食事が主流となり、人々は「食事と健康」の関係を再認識。「オーガニック食こそが健康を守る」との意識が一気に拡大した。
それまで“価値観の一部”だったオーガニックが、“生活の必需”として本格的にビジネス化される段階に突入したのである。売上は急増。吉田氏が32年間ひたむきに続けてきた「オーガニック伝道」に対して、ようやく社会が応え始めたのだ。
「理念とビジネスの両立」が、ここに真に実現し始めたといえる。吉田氏は今、「事業拡大・攻めの時期」と位置付けている。「しっかりした事業計画と資金調達が成せれば、別次元の領域に踏み込める」と語る。
一方で、長男・幸一郎氏、社員である沖園リエ氏が政治の舞台に立ち始めたことも、吉田氏の理念が社会全体に波及し始めた証左といえるだろう。
筆者は多くの経営者を取材してきたが、これほどの迫力を感じさせる人物は稀有である。「凄味ある経営者」シリーズの第1回に吉田登志夫氏を据えた狙いを、読者の皆さまもご理解いただけたに違いない。