凄味ある経営者(2)大高建設創業者・大木孝朋氏~折り返しの50周年から100年の計へ
感謝の念いっぱいで関係者に恩返し

大高建設(株)は1975年3月に設立され、今年で50周年を迎えた。大木孝一郎社長を筆頭に、経営陣などは3月、5月に分けて2回、関係者らを招き、ホテルニューオータニ博多にて感謝の夕べの催しを行った。3月は主に得意先向け、5月は取引業者(下請業者主体)を対象とした「感謝デー」として開催された。延べ招待者数は社員を含め約700人にのぼった。
筆者は3月の催しに出席したが、ここで印象的な場面に遭遇した。取引先(発注先)の大半が同社に複数の仕事を発注していたのである。代表して挨拶に立った経営者は「父の命を受けて本社建て替えを発注した。そのご縁から5回にわたって仕事を発注してきた。大高建設さんには本当に安心して仕事を任すことができる」と絶賛した。この経営者は現在、会長に就任されているから現社長は3代目になる。3代にわたり受注が継続しているから設立以来、50年の取引歴なのである。大高建設の50年の歩みは、まさに顧客との強固な信頼関係構築の歴史だった。この期間は、貴重な信用財産を形成できたといえる。
抜本的な組織テコ入れ
設立から50周年を迎えた大高建設だが、業績が一貫して登り調子だったわけではない。確かに設立から1985年までの10年間は、「倉庫・物流特化のオオタカ」として異彩を放ち、注目を浴びてきた。ところが、どこかで必ず経営の壁に直面するのは企業の宿命でもある。その壁にぶつかったのがリーマン・ショックの前後であった。
そこから創業者・大木会長は、根幹の組織立て直しを図った。まずは人材のスカウトを徹底した。現在、常務取締役で手腕を発揮している宮崎賢治常務もその1人であった。さらに2012年4月には、大木会長の長男・孝一郎氏を社長に抜擢し、事業継承の方向性を定めた。また日鉄エンジニアリングとの関係を濃厚にして人材派遣を要請。多くの人材を受け入れた後、最終的には徳永利美氏を17年4月、“三顧の礼”で迎え入れた。現在、徳永氏は代表取締役副社長に就任し采配を振るっている。この抜本的な組織づくりに着手してから流れが変わった。
絶好調の業績が続く
この6期は、増収増益を継続している。この流れが始まったのは20年3月期である。20年3月期の売上高は47億7,427万8,000円、当期純利益は1億4,372万7,000円である。25年3月期は売上高77億2,722万3,000円と、62%の増収を記録。当期純利益の面では20年3月期は1億4,372万7,000円、25年3月期は1億9,606万8,000円を叩き出している。当期純利益の面では36.4%の増益である。多少、財務に精通している方々ならば簡単にわかる。「大高さん、節税対策が上手になったな」と感服するはずである。誰でも経験しない(大儲けの経験)と知恵はつかない。
売上面でいけば25年3月期、過去の決算処理を踏襲していれば80億円は軽く突破していた。現在の手持ち受注、契約進展具合から予測すると26、27年3月期は優に売上高100億円を突破することは確実である。この勢いは今後、4期持続できると読んでいる。しかし、いくら転がってくる受注が増大しても、請負側の施工力には限度がある。「痛し痒し」なのだ。この言葉は金融機関との関係にも当てはまる。どの銀行も大高建設と取引をしたい(融資をお願いしたいという本音)と思っているが、同社は無借金なのである。金融機関にとっては厄介な話である。
社会の風向きに乗って
大木社長は「今までは一現場20億円の仕事が当社にとっての大型物件でした。ところが最近は物件が大きくなってきて30億円を超えるのも珍しくありません」と語る。40~50億円の物件も打診がきている。この規模の施主の大半は東京、関西に本社をおく企業である。「だからこそ東京、関西企業に当社の信用力のアピールに必死で磨きをかけている」と営業担当の宮崎常務は営業の苦労辛酸を舐めているそうである。
社会の風向きとは一体、何か?
(1)物流業界のニーズの様変わりが進行している
(2)倉庫規模の拡大、設計の大変革と連鎖していく。1物件投資額が2~5倍に膨れてきている
(3)物流倉庫に連動して工場建て替え投資が膨張してきている
(4)加えること、有事安保の時代となった。国というか防衛省発注の予算がうなぎ登り。この案件も大高建設の得意分野であり、出番が急増している。
ではこうした社会の“風向き”に乗るための下敷きを誰が敷いたのか。それは当然、大木孝朋会長である。
岡崎工業時代に基盤をつくる
大高建設は1975年3月に設立され、今年で50周年を迎えた。50周年を迎えられたのには訳がある。それは「前史」が横たわっているからだ。大木会長の実父は建設事業に従事していた。同氏は小学校の時から現場監督にあこがれ、高校では当然のように建築科を選択した。複数の職場を経て、岡崎工業に入社し、およそ20年近く勤務していた。最初に配置されたのは物流・倉庫の設計だった。当初、この領域にはあまり関心がなかったのだが、現場に触れるなかで大いに関心が湧いてきた。「改善の余地が山積している」ことに関心をもったのだ。当時、物流倉庫の荷物の出し入れは夜間が主になる。早速、改善提案を行ったところ、そこのオーナーから感謝された。「工夫すればいくらでも改善・改革できる」という現場第一主義のエキスを会得したのである。
57年当時、ラーメン構造が主流であった。倉庫の幅は30mが限界とされていたが、50mに延長させる功績を上げた。ボウリングブームの影響で、ボウリング場の建築にも関わり、新たな工法に磨きをかけた。その集大成が「立体トラス工法」の表彰である。
添付の表彰状を参照されたし。71(昭和46)年10月28日に岡崎工業(株)取締役社長・岡崎春雄氏から受賞されている。このトラス工法を駆使すれば75m×200mの倉庫を簡単に立ち上げられる。画期的な工法であったのだ。
会社は75年3月設立である。だが設立20年前から大木会長は一社員、一設計士、一現場管理士として一心不乱に思考し、物流現場の技術変革に注力し続けていた。「現場には銭が落ちている」という例えのように「現場から学ぶ」姿勢に磨きがかけられていった。これこそが大高建設が50周年を迎えられた要諦であり、50年前から基盤が築かれてきたと断言できる。
50年から設立100年へ──挑戦の戦略第一義は
今後も同業他社の追随を許さぬ「技術力」を磨き上げるしかない。日本製鉄との結びつきは、単なる人脈ではなく、技術力の高さに対する信頼に根ざしたものである。
日鉄子会社・日鉄エンジニアリングは長年「スタンパッケージ建築」パートナー施工店の育成・拡大をしてきた。大高建設も長年、このパートナー施工店に加盟して実績を積み上げてきた。2021年には「30年連続優秀賞」を受賞した。絶大な信用を得るには30年という歳月が必要である。ここで第1番目の要諦が明確になってきた。日本製鉄・日鉄エンジニアリングとの太いパイプを磨き上げることである。
今後50年の大激変を占う
1945年8月15日、日本は敗戦を迎え、政治、経済、教育、天皇制、地方自治など、すべてが根本から変革された。鉄鋼メーカーにおいても日本製鉄は組織解体がなされて「八幡製鉄」として再スタートを。30年後の1975年には新日本製鉄(当時の商号)として世界に君臨するメーカーとなった。
国策の為か新日本製鉄は中国・上海において製鉄所の立ち上げを手取り足取り指導したが、25年過ぎると強力なライバルへと変貌。座して死ぬわけにはいかない。日本製鉄はUSスチールの買収に乗り出している。50年という時間は、世の中が二転三転する時間軸である。
技術力の質的な底上げが要なり
宮崎常務は神妙な面持ちで語る。「お世話になった会社への恩返しとして、若手の人材が定着できる強固な風土を築きたい。私自身もスカウト役として東奔西走していく所存である」と強調する。
徳永副社長は別の切り口で説明する。「現場施工管理士の実力が付くか付かないかは、工事現場の規模の大きさに関わってくる。大高建設では最近、現場が大きくなってきたが20~30億円である。日鉄エンジニアリングでは1つの工事が500億円というのも珍しくない。この経験則の違いは容易には埋まりません」と強調する。裏を返すと逐次、現場受注規模を拡大して技術者のレベルアップに挑戦することが宿命となる。
最後に大木社長の発言で締めよう。「やる気のある若手社員たちが結集しなければ企業の永続化はありえない。この一手に絞って社風改善に邁進したい」。