福岡大学名誉教授 大嶋仁
核と原発を結ぶ「監視機関」IAEA
イスラエルと原発はどう結びつくのか? これが本稿のテーマである。その答えは端的に言って、IAEAすなわち国際原子力機関である。
この機関は世界各国の核兵器開発を監視し、原子力の平和利用を普及させようとする国連の機関である。ところがこの機関、いまだ核兵器をもたないイランの原子力開発には厳しく、核兵器を中東で唯一保有するイスラエルに対しては見て見ぬふりなのである。
もっと正確にいえば、この機関が核兵器開発の現状について調査しようとしても、イスラエルはこれを拒否し続けてきた。そして、その拒否が容認されているのである。
現在核保有国として知られているのは米国、ロシア、英国、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、そしてイスラエルである。このなかでイスラエルのみが、核保有の有無を公表していない。無論、核拡散防止条約にも署名していない。
そんな国が、いまだ核兵器をもっていないイランより危険でないなどと、誰に信じられよう。だが、国際機関までが、そういうイスラエルを容認している。これが世界の現状なのだ。
原子力ロビーとイスラエル・ロビーの影
国際原子力機関がイスラエルに甘いのは、どうしてか?
答えは、物理学者・矢ヶ崎克馬の書いた『放射線被曝の隠蔽と科学』に見つかる。この本には、日本政府が公表する放射線被曝に関する「科学的データ」は、国際原子力ロビーによってねじ曲げられたものの無批判な借用であり、そこに「真の科学性」はないと書いてある。
そうなると、日本政府はそれを知ってかどうかは別として、国際原子力機関にならって、国民にウソをついていることになる。そのウソとは、国連の機関が示した数値に従って原発を運用すれば、少しも危険はないというウソである。
矢ヶ崎氏の指摘は日本における原発問題の核心をつく極めて重要だが、今ここでは氏のいう「国際原子力ロビー」に注目したい。というのも、「イスラエル・ロビー」を連想させるものだからだ。
イスラエル・ロビーとは、アメリカの外交政策を左右する強力なロビー団体のことで、親イスラエル派のユダヤ人と、福音派キリスト教団体とが中心になってできている。彼らは政府関係者に働きかけ、イスラエルの利益になる外交政策の実現を要求してきたのである。
その見返りは、表には出ないが、多額の援助金であることに間違いはない。このロビー団体には巨大な資金がある。
このことと、国際原子力機関がイスラエルの核兵器開発に甘いこととをつなぎ合わせてみると、この機関がイスラエル・ロビーと深く関わっていることが見えてくる。国連の機関といえども「中立」とは程遠いのであって、その背後にイスラエル・ロビーがあるのだ。
イスラエルはこの機関を自国の核兵器開発に利用し、その影響が日本にまでおよんで原発の増設計画を生んでいる。
実際、この機関は「原子力の平和利用」を推奨し、原発をもっとつくるようにと各国に勧めている。その流れに乗って、戦後すぐに日本での原子力に関する研究を禁じたアメリカも、ソ連との冷戦期に入ってから、日本に原子力開発をしろと迫ったのである。以降、日本は原子力の「平和利用」と銘打って、原子力発電に力を入れ始めた。その結果、現在では日本各地に原発が設置されている。
科学者でなくとも、この「地震列島」に原発を設置することの危険性は目に見える。しかし、外圧に弱い日本である。アメリカに反発したら何をされるかわからない、という弱気に支配されている。
「平和利用」とは名ばかりの外圧構造
以上から、イスラエルと原発の関係がわかったと思う。イスラエルと日本のあいだにはイスラエル・ロビーというものが介在し、それが国際原子力機関に大きな影響力をおよぼしているがゆえに、イスラエルは核兵器を秘密裏に保有し、日本は原発を増やすことになるのである。
核兵器も原発も同じ原子力の開発である。原子力産業を育てるのが国際原子力機関の使命であるならば、一方で核兵器の拡散を防止するという名目で一部の核保有国に特権を与え、他方で原発の増設によって一部の原子力産業に巨大な利益をもたらすことになるのである。
世界の現状が変われば、アメリカが「そろそろ核兵器を開発しては?」と日本政府に持ち掛ける可能性もないわけではない。そうでなくとも、日本の政治家のなかにも、日本は核兵器をもつべきだと考える人が増えるだろう。一体、日本はどうなるのか?
日本国憲法がそうさせないという意見もあろう。その憲法はアメリカが基本枠をつくったのだから、なんとも皮肉だ。
日本が主権国家でありたいのなら、この悪しきシステムの奴隷になってはならない。政治家は国際機関の圧力を脱し、アメリカの言いなりにならない努力をしなくてはならない。
いま私には、家から近い玄海原発の向こうに国際原子力機関が見え、その動きを左右するイスラエル・ロビーが見えている。原発とイスラエルは一本の糸でつながっている。
(了)