言葉の変化についていけない

大さんのシニアリポート第154回

 「武田砂鉄ラジオマガジン」(文化放送)の3月11日水曜日(武田砂鉄、西村志野 勅使川原真衣)で、最近の小学生の女の子は「普通に自分のことをボクという」という話で盛り上がっていた。「私」ということを恥ずかしがる女生徒がいるとも話した。最近のジェンダーレス化と片付けてしまえば簡単だが、言葉が占有している歴史的な意味が薄れてきたともいえる。つまり、男は「俺、僕」、女は「私、あたし」というのが当たり前であった時代の消滅。

安易に使えば言葉は死ぬ

イメージ    「僕」化は小学生だけではない。運営していた高齢者の居場所「サロン幸福亭ぐるり」の常連のなかにも「俺」を連発する女性客がいた。「女を捨てた」と笑いながら指さす人もいたが、本人はいたって平気だった。まわりも無関心。同郷(山形県)だったということもあり、私もそんなものと気にしなかった。

 ところが相変わらず気になって仕方がない言葉がある。5年前の同誌にも書いたのだが、最近になってさらに「気になり度」が増した。それが「○○させていただきます」だ。なかには「やらさせていただきます」と上乗せして話す人まで出てきた。相手への配慮や敬意を示そうとするのだが、丁寧な言葉とはとても思えない。逆に不快な気持ちにさせられることも多い。とくに、役所や社会福祉協議会など公的な部署での講演会やフォーラムなどで耳にする。「やらせていただきます」じゃなく、「やります」「したいと思います」でいいんじゃないのかな。なんだか、無理して住民にへつらい、へりくだっているように聞こえて不愉快になる。

 言葉は変化していくものである。「させていただきます」は、縦社会から横社会に変化しだした1990年以降、手軽に丁寧、謙譲的な態度を表す言葉として使われるようになったという。確かに、「させていただきます」といえば汎用性が良く使い勝手がいい。でも、使用頻度が高く、安易に使われることが逆に信頼性に疑問をもたれるとは考えないのだろうか。生きている言葉、納得性のある言葉は幸福な気持ちにさせられるものだ。

敬意のインフレーション

イメージ    作家で演出家・鴻上尚史の『「空気」と「世間」』(講談社現代新書)のなかに「させていただきます」を連発することの無意味さを表現する部分があった。少し長いが引用してみる。「この前、テレビを見ていたら、ジューサーミキサーを通信販売していて、紹介する女性司会者が、『今日は、新製品のジューサーミキサーを紹介させていただきます。では、早速、このオレンジをミキサーにかけさせていただいて……これをコップに注がさせていただいて……飲まさせていただきます』と仮面のような微笑みで語っていました。どこまで『~させていただく』と言い続けるつもりなのでしょう。そこまで『世間』にへりくだって、息苦しくはないのかと、正面から聞きたくなります。もし、『世間』というものが人格をもっていたら、この女性司会者に向かって『ねえ、慇懃無礼っていう言葉、知ってる? 馬鹿にしているでしょ』と突っ込むはずだと僕は思っています」という。「させていただきます」を連呼する人のことを、「本当に丁寧で礼儀正しい人だ」とは思わないだろう。鴻上はこれを「会話ではなく、にこやかな『ひとり言』なのです」と揶揄する。「させていただきます」の連呼は、丁寧語どころか聞かされる方にとって、妙におちょくられている気がして不愉快になる。

 「敬意のインフレーション」と表現するのは、法政大学文学部英文学科教授・椎名美智氏で、『「させていただく」の語用論 人はなぜ使いたくなるのか』(ひつじ書房)の筆者である。この現象が顕著になったのは、「明治維新のころから、社会の身分制度が表向きはなくなったことで、相手がどういう立場の人なのか、わかりにくくなったんです。そこで、失礼のないようにと、敬語がたくさん使われるようになりました。敬語は、相手との距離や上下関係を調整する言葉だからです。19世紀後半には『させていただく』が誕生しています」という。
「飲食を『禁止させていただく』などといったポスターの文言。決定権があるのはあちら側なのに、こちら側に決定権があるかのように書かれているので、偽善的な印象を受けます。『申し訳ありませんが、ここでは~できません』という表現でいいと思うんです」

イメージ    「『させて』と、“もらう”の敬語である『いただく』から成る言葉です。意味を見ていくと、『させて』で、人から何らかの『恩恵』を受ける。つまり本来は、許可や恩恵をもらう『他者=あなた』を前提とした言葉です。『あなたの許可を得て、ありがたいことに~をいただく』という意味です」なのに、現在では相手(他者)がいなくても使われるようになってきた。

 以前、某古書店で、すべての店員が闇雲に「いらっしゃいませ、こんにちは!」を連発した。入店するだけで、いきなりこういわれ、客の顔も見ないでくり返し連呼されると不愉快になる。会社の規則だから、店長に逆らえないから、従っている方が面倒ではないから…。おそらく若い人には気にならないのだ。鴻上は同書で、「微笑んだ元気な『ひとり言』です」と切り捨てる。行きつけの飲み屋で、入店すると、「お帰りなさい」、店を出るときに、「行ってらっしゃい」とさりげなくいわれても、そこに商売としての「あざとさ」を感じさせない卓越したスキルがあれば不愉快に感じることはない。空砲のように同じ言葉を連呼する。まるで動詞に付ける助動詞のように「させていただく」を言葉のアチコチに付ける。

紡ぐ言葉、「正しさ」にとらわれず

イメージ    言葉というものは変化するものということは理解できる。言葉によっては完全に間違った使われ方をしている場合も少なくない。代表的な例として、「情けは人の為ならず」を、「だから安易に情けをかけてはならない」がある。本来は、「情けをかけておけば、巡りめぐって自分によい報いが来る」(スーパー大辞林)ということ。ほかにも文化庁の21年度国語世論調査によると、「姑息」を、「ひきょうな」と選択した人が73.9%もいる。正解の「一時しのぎ」は17.4%しかいない。同様に、「割愛」も、「不要なものを捨てる」が65.3%で、本来の意味、「惜しいと思うものを手放す」は23.7%。正直、私は「姑息」「割愛」も間違った使い方をしていて驚かされた。いや、無意識のうちに間違った使い方をしている例は数多くあると推測できる。「横断歩道みんなで渡れば…」的な言葉の迎合性が横溢することで、言葉の持つ本来の意味が時代に沿うように変えられていく。もっとも「別に~」といわれればそれまでなのだが…。

 組織開発コンサルタントの勅使川原真衣氏が朝日新聞(24年7月27日)の「Re:Ron ピックアップ」のなかで、「『レシートお返しします』ってさっき言ったけど、レシートはこっちから渡すんだから『レシートです』にして、との指導の声。(不慣れな店員に対して)行きつけの珈琲チェーン店で、原稿を書いているときに耳にした」といい、「『高い能力』『成長』『自立』『タイパ』『リスキング』『ウェルビーイング』…などの一般的に“良し”とされている言葉が、その本来持つ多様性をそぎ落とされ、単純化されたまま称揚されていないか? なぜなら、物事やことばの単純化、換言すれば一元的な『正しさ』に拘泥することが、生きづらさを生み出すことが少なくないと考えるためだ」と結ぶ。

 そうなのだ。言葉は使いまわされていくうちにその意味が単純化され、その言葉が生まれた本来の中身が変えられていく危険性を孕む。「させていただきます」の安易な連呼が結果的に言葉全体を破壊することにつながる。もっとも先ほどの「姑息」や「割愛」じゃないけど言葉の破壊は無意識のうちに始まっている。

 3月13日の朝日新聞紙上に留飲を下げる広告を発見した。そこには「3月14日に運賃改定をいたします」(JR東日本)とある。正に「させていただきます」ではなく、「いたします」だ。運賃改定には異論もあるものの、この何ともいえない潔さが逆に説得力を感じさせる。これでいいと思う。


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。

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