ふたりの大の里

大さんのシニアリポート第155回

 運営している高齢者の居場所「サロン幸福亭」では圧倒的に女性の常連客が多く、スポーツが話題に上ることはほとんどない。唯一、大相撲だけは別格だ。贔屓力士も当然ながら実力派、とくに容姿のいい若手力士に集中する。春場所休場したが、横綱大の里が人気だ。不思議に思っていたのだが、大の里は二代目である。ところが初代が話題に上ることはほとんどない。琴桜も霧島も先代のことが大いに話題になった。なぜ大の里の初代が話題にならないのか。そこには日本相撲協会が触れられたくない「事件」があった。

「春秋園事件」で力士部屋から脱走・籠城

拙著
拙著

 初代大ノ里(初代は「の」ではなく「ノ」を使用)は明治25年青森県南津軽郡藤崎町生まれ。明治44年若松部屋入門。湊川部屋、出羽ノ海部屋へと移籍。160㎝、90㎏と小柄ながら抜群の稽古量で大正13年大関へと昇進。稽古熱心で弟子への面倒見もよく「相撲の神様」と崇められた。しかし、とある事件に巻き込まれ数奇な運命をたどることになる。

 昭和7年1月、「春秋園事件」が起きる。出羽ノ海部屋の十両、幕内、役力士の全32力士が部屋から脱走して大井町にある料亭春秋園に籠城したのだ。首謀者は関脇天龍(本名和久田三郎)。天竜は相撲協会に対し十カ条の相撲改革案を突き付けた。とくに、「協会の会計制度の見直し」「茶屋制度の廃止」「養老金制度の確立」「力士の生活安定」の4項目の実現を力説した。天竜は自身が記した『相撲風雲録』(昭和30年刊)のなかで、相撲協会という組織のでたらめさを「収入の多寡、運営費、人件費の収支報告がない。茶屋制度の不明瞭さ。養老年金の世間並みの支給を。三役に昇進してようやく生活が安定するという不合理さ」を指摘。収支報告を放棄したまま部屋の親方を含む一部の理事たちが勝手に懐に入れるいわゆる「御手盛り」がまかり通る有り様に天龍が決意した。当時の出羽ノ海部屋は力士総数100人を超す大所帯。「春秋園事件」当時、東方は三役から幕内、十両の大半が出羽ノ海部屋力士で占められていた。

 これまでも「新橋倶楽部籠城事件」(明治44年)や「三河島事件」(大正12年)など力士による相撲協会への反逆事件はあったものの、成功とはいいがたかった。天龍の蜂起は以前の2つの改革とは明らかに様相を異にした。「大日本新興力士団」という名称の相撲協会とは完全に別組織を旗揚げしたのだ。

斬新な取り組みも時間が過ぎれば飽きられた

拙著
拙著

 そのなかで大関大ノ里は参謀格的な役割を担った。「人のいい性格につけ込んだ天龍の策謀で、大ノ里は被害者」という声を耳にすることがある。蜂起反対の気持ちがあるなら、大関武蔵山や巨漢力士で「ノロマの文ちゃん」と揶揄された人気力士で、当時前頭二枚目の出羽ヶ嶽文治郎たちのように脱退することも可能だったはずだ。大ノ里は義理に難く、人情味に長けた人間で、自分という確たる信念を持つ人物だ。天龍の本心に賛同すれば裏切ることはありえない。その証拠に最後まで天龍たちと行動を共にし、中国大連の病院で客死している。享年45。出羽ヶ嶽と義兄弟の関係にあった歌人の斎藤茂吉は大ノ里の訃報に接し、「大の里大連にありて死にしこそ相対的に人など悲しむ」(『寒雲』)と詠んでいる。

 協会側の警察や有力者、さらには非合法的組織を使っての切り崩しにも耐え、新組織を立ち上げた直後に改革案を打ち出し、協会に突き付けた。なによりも画期的だったことは、力士の命とされた髷を切り落としたことだろう。髷がなければ力士が協会へ容易に帰参することは叶わない。その斬新な発想が、新しいものを求めていた人々の目には新鮮に映った。これで協会への完全な離脱宣言が完了した。

大正15年1月場所番付表
大正15年1月場所番付表

 天龍は「公開新式相撲」と題して矢継ぎ早にユニークな競技方法を展開した。従来の東西制、番付制を廃して個人競技とした。力士をA・B・Cのクラス分けをした。各クラスの順位や昇降は、すべて年二回の「選手権争奪戦」での勝率で決めた。さらに「選手権挑戦試合」(挑戦資格者同士の取り組み)、「随時挑戦試合」(観客の要望する取り組みを実現)など、これまでの相撲道とは明らかに異質の土俵を展開させた。これが評判を呼んだ。さらに、JOAK(現・NHKラジオ)が名アナウンサー松内則三による全国放送を確約。本場所はもちろん、巡業場所でも大盛況。本家相撲協会は顔色を失った。

出羽ヶ嶽の手形/縦26・5㎝、横23・5㎝
出羽ヶ嶽の手形/縦26・5㎝、横23・5㎝

 ただし、天龍の目論見には大きな欠陥があった。客は次々と新しい取り組みを望んだ。しかし新方式にも限界がある。新方式に陰りが見え始めると客はそっぽを向く。協会の切り崩しが始まる。相撲界は親方と弟子という強い関係が根本にはある。やがて力士にも里心が生まれ、協会への帰参が増えた。昭和12年1月4日、大阪阪急電鉄東側にある広場で開かれた7日間興行を最後に解散する。協会に帰参したのは17人。廃業したのは10人。このなかに天龍と大ノ里が含まれている。こうして相撲道改革の狼煙を上げた天竜たちの挑戦は、5年で挫折した。

貴ノ花の仕掛けた相撲道改革も潰された

 その後天竜たちの命を懸けた戦いはどう受け継がれていったのだろう。相撲協会も世間の目を意識しつつそれなりに改革を試みたものの、壁になったのが守旧派だった。天龍が強く望んだ改革の1つ「茶屋制度改革」は、戦後不滅の大横綱双葉山(時津風)理事長が根本的な改革に手を染めたものの、次の武蔵山(前頭筆頭出羽ノ花)理事長によって実質的に骨抜きにされた。境川(横綱佐田の山)が実現を迫った「年寄名跡(親方株)」の一括理事会預かりという大改革も守旧派(高額な資金で株を買い求めた親方たち)の猛反発に遭い、理事長辞任にまで追い込まれている。

 貴乃花親方(当時、元横綱貴乃花)は2005年、いくつかの相撲道改革を宣言し世間の耳目を集めた。これが協会批判と受け取られ、北の湖理事長から厳重注意を受けた。同年他界した父親(元大関初代貴ノ花)の遺産など(複数の親方株持参という禁じ手)の問題で兄(元横綱三代若乃花)との確執がマスコミを賑わせた。協会は貴乃花の改革を問題視した。天龍が指弾した相撲道改革に連なる問題を嗅ぎつけたからだと私は思っている。

 貴乃花の断髪式が行われた2006年6月1日直後のインタビュー記事として『PRESIDENT』(同年8月4日号)誌上に掲載。主な点を表記したい。①断髪式は新しいかたちにしたい/②専属トレーナーを抱えるのは当然/③外国人力士を積極的に入れることで、日本人力士も今以上強くなる/④海外に日本相撲協会の支部をつくる/⑤茶屋でのチケット販売方法を変えたいなど。相撲評論家中澤潔氏は、常日頃から提言する貴乃花の相撲道改革について、『サンデー毎日』(2005年8月7日号)で、「相撲茶屋撤廃や力士の収入増などの改革を要求した春秋園事件以来、若い年寄りが組織に楯突いた前例がないんです」「角力改革につながるさまざまなヒントが詰まっていると思います。それが『あんな下っ端に言われて、オレたちが何も考えていないみたいに思われるじゃないか』と頭にきたんでしょう」と述べている。その後貴乃花は、某外国人横綱が起こした暴行事件をめぐる協会の姿勢を批判し、内閣府に告発状を提出。これが協会とのさらなる確執を生み、2018年10月引退に追い込まれる。

 さて、現在の大相撲は貴ノ花親方時代の大不況(客席はまばら)と違い、年6場所はチケットの入手が困難なほどの大盛況だ。久方ぶりの日本人横綱大の里をはじめ、大関安青錦などの若手が台頭し、活気づいている。残念ながら茶屋制度も親方株問題も棚上げされたまま。マスコミも追及しない。でも、長い相撲の歴史のなかで命を懸けて改革に身を投じた力士がいたこと、そのなかに初代大ノ里という力士がいたことを忘れないでほしい。

・拙著『文ちゃん伝 出羽ヶ嶽文治郎と斎藤茂吉の絆』(河出書房新社)、『昭和大相撲騒動記 天龍・出羽ヶ嶽・双葉山の昭和七年』(平凡社新書)参考。


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。

< 前の記事
第154回

関連キーワード

関連記事