2020年5月3日 07:00
本田さんが悩んだのは、日本人が自らの血を差し出してくれるだろうかということだった。
2020年5月2日 07:00
蔓延の源は、商業血液銀行と呼ばれていた買血業者の反社会性にあった。東京の山谷、大阪の釜ヶ崎の簡易旅館街に住む日雇労働者を狙って買血し、汚染された血液が病院に運ばれ輸血されて、血清肝炎が大流行したのだ。 さらに、常習売血者のほうも、血を売り過ぎてバタバタ倒れているというのである。
2020年5月1日 14:31
なぜ、マスコミがマスゴミといわれるようになってしまったのか。その理由を一人のノンフィクション・ライターについて語ることで明らかにしてみたい。
2020年1月11日 07:30
浅利さんが劇団四季を突然退社したのは2014年6月だった。週刊新潮(7月3日号)によれば、劇団員を前に浅利さんがこういい出したという。「今年は劇団創立60周年。僕も81歳になった。医師からも、無理をしないで欲しいと言われている。今日は、僕が劇団トップとしてする、最後の話になると思う」。そして、みんなにボーナスをあげたいといったそうだ。
2020年1月10日 13:30
しばらくして、浅利さんから、「参宮橋を引き払って、あざみ野へ移る」と聞かされた。浅利さんや劇団員の汗と涙が染みついている稽古場を離れるのは辛い決断だったはずだ。あざみ野は、現在は閑静な住宅街だが、当時はまだ寂しいところで、都落ちという感じは否めなかった。
2020年1月9日 13:30
次第に四季の実力が認められるようになると浅利さんは、1958年に、石原慎太郎さん、江藤淳さん、谷川俊太郎さんら若手文化人らと「若い日本の会」を結成して注目を浴びる。1961年には日生劇場の取締役に就任する。浅利演出が世の中に広く認められるのは、1966年から始まった歌手・越路吹雪さんのリサイタル公演だった。
2020年1月8日 17:02
『キャッツ』や『オペラ座の怪人』など、日本最大のミュージカル劇団である劇団四季。その創業者である浅利慶太さんは、超一流の演出家であり、有能な経営者でもあった。劇団四季の復活からパリ祭(フランス革命記念日)の1日前に亡くなるその日まで、浅利さんが生きていた時代を一度たりとも忘れることはできない。
2019年10月23日 10:14
平成13年7月。私が講談社から子会社の三推社へ移って間もなく、ノンフィクション作家の本田靖春から手紙をもらった。「このたびは、講談社を退かれるとの便りを聞き、本来ならばお伺いしてご挨拶申し上げるところ、とり急ぎ書状で深く深く感謝の言葉を述べさせていただきます。貴兄が講談社にもういないのだと思うと、ポツカリ心に大きな穴が開いたようで、寂しくなります。そして、一つの時代が終わったなあ、という思いにとらわれるのです」
2019年10月9日 17:28
講談社の株主総会は毎年2月後半にある。私は役員になったことがないから詳らかには知らないが、局長以上の人事がここで決まるようである。
役員に昇格する者、役員を退任する者、子会社に出向させられる者など、社長以下一握りの人間たちの“意向”で決定され、サラリーマン人生の勝ち組負け組が決まるのである。
私は、社内人事には関心が
2019年9月17日 18:02
振り返ると、私の講談社人生は、編集長を辞してからが「実人生」だったと思う。それまでは夢物語とまではいわないが、地を足で踏んでいなかった、そんな気がする。結婚してすぐに、ジャニーズ問題で婦人倶楽部に飛ばされたときは、心底辞めてやろうと考え悩んだ。だが、まだ私には若さがあった。
2019年9月11日 13:30
週現編集長在籍は5年半。社史『物語 講談社の100年』によれば最長である。自分でいうのもおかしいが、他社も含めて、これほど順調だった編集長は、そうはいないと思う。取材先との緊張関係は何度もあったが、編集部内はベタ凪状態だった。
2019年9月3日 16:55
私には愛社精神がない。大学は早稲田だが愛校精神など全くない。だが、自分が携わってきた週刊現代、フライデー、廃刊になってしまった月刊現代、ジャニー喜多川の件ですっ飛ばされた婦人倶楽部(廃刊)も好きである。愛しているといってもいい。週現編集長を辞するまでは、講談社という組織に属しているサラリーマンだと考えたことはほとんどなかった。
2019年8月27日 11:02
オウム事件の話に入る前に、週現時代の私の仕事の仕方について触れておきたい。今でも、かつての部員たちに会うと、「あんたの編集長時代は厳しかった」とよくいわれる。私には、厳しくしたという意識は毛頭ない。だが、部員たちの意見をあまり聞かず「独断専行型」の編集長だったことは認める。
2019年8月20日 17:23
私が週刊現代編集長だったのは平成4年から平成9年までの約5年半だった。販売に調べて貰ったら、この間の平均実売率は82%を超えていた。あの当時でも信じられないほど高いが、今思い返せば、編集部員に恵まれたことと、私にツキがあったということだろう。
2019年8月6日 17:47
その男は月刊現代編集部にノソッと入ってきて、ボソッといった。「元木さんいますか」それが松田賢弥との出会いだった。先輩からの紹介だった。「記者をやりたい奴がいる。会って、使えなかったら断ってくれ」。業界誌をいくつか渡ってきたらしい。年は30代半ば。「あんた永田町は詳しいか?」と聞くと、まだ行ったことがないという。
2019年7月30日 09:36
胸を張っていえることではないが、このジャパングリッシュを生み出したことで、現代だけでなく、ポスト、宝島(光文社から出ていた週刊誌。後に休刊)、アサヒ芸能、週刊大衆など多くの週刊誌が部数を伸ばし、平成9年(1997年)まで続く週刊誌第二期黄金期を迎えることになったと、自負している。
2019年7月23日 15:09
汗が体中から噴き出してくる。冬近い晩秋の街を走るタクシーの中は涼しいはずなのに、私の頭も顔も背中も、汗水漬くである。おまけに、講談社が近付くにつれて動悸が激しくなる。田中角栄邸を過ぎて横道に入り、大塚警察のところを曲がれば社だが、私は運転手に、「申し訳ないが、もうしばらく走ってもらえないか」と告げる。
2019年7月16日 15:34
7月9日、ジャニーズ王国を一代で築いたジャニー喜多川が亡くなった。享年87。翌日のスポーツ紙は全紙、一面全部を使って賛辞を贈り、彼の死を悼んだ。同じ日の朝日新聞も一面で彼の死を大きく報じ、第二社会面でもジャニー喜多川の「評伝」を掲載した。
2019年7月9日 13:00
編集部の床の上に鮮血が小山のように盛り上がっていた。朝、10時を少し過ぎた頃、やくざ風の2人組の男がずかずかと入って来て、アルバイトの女の子に、「編集長はいるか?」と聞いた。
2019年7月2日 15:41
幸福の科学事件に触れる前に、ビートたけしの率いる「たけし軍団」がフライデー編集部に乗り込んできた事件の「後日談」について書いておきたい。この事件をきっかけに、写真週刊誌の取材手法に批判が集まり、部数が激減したことは前に書いた。野間惟道社長(当時)がこう表明した。