2024年04月29日( 月 )

オールジャパンのリーダーとして日本の鉄道界と世界をつなぐ(前)

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石井 幸孝 氏

 今年10月で85歳を迎えた、九州旅客鉄道(株)(JR九州)の初代社長・石井幸孝氏。本業の鉄道以外でも、福岡城市民の会の理事長や(公社)福岡県サッカー協会の会長を務め、文化・スポーツの分野でも福岡に多大な貢献を納めている。今また、石井氏は、新たなステージに立ち、JR7社のオールジャパン体制づくりに邁進している。

多角化経営が成長のカギ

 「業種はオールドビジネス、業態はニュービジネス」。これがJR九州発展の礎をつくった石井幸孝氏の経営だ。

 1987(昭和62)年、国鉄は北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州の旅客鉄道会社6社と1つの貨物鉄道会社に分割され、それぞれが独立した民間企業として独自の運営を始めた。しかし、スタート時点ですでに格差がついていた。人口の多い本州に線路をもつ鉄道は黒字を出せるが、九州、四国、北海道のいわゆる三島会社の苦戦は明らかだった。

 石井氏は、JR九州初代社長として陣頭指揮を執った。民営化の1年半前から九州総局長として門司に赴任、民営化反対運動が激しくなり身の危険を感じるほどの混乱のさなか、民営化後の事業計画をつくり上げていた。九州の鉄道事業で利益を出すのは難しい。しかし、鉄道は公器である。赤字だからといって簡単に止めるわけにはいかない。鉄道事業に急激な成長を望むのは現実的ではないなか、九州で生き残るには鉄道でブランドをつくり、他の事業で利益を上げる多角化経営しかないという考えをもっていた。

 多角化路線には民営化当初から着手した。不動産、マンション、駅ビル、飲食など多くの事業を手がけた。JR博多シティには、飲食事業部が展開する「うまや」などを入れた。多角化は物販、ドラッグストア、パン、農業にまで広がった。そして、これらの事業が見込み通り成長し、現在のJR九州を支える太い柱となり、2016年10月には東証一部に上場をはたした。

 石井氏は、九州総局長として赴任する前に首都圏本部長を務めており、そのころ、私鉄の近鉄(近畿日本鉄道)を研究したことがあった。近鉄は大阪、京都、名古屋など大都市を抱えていたが、人口の少ない地域にも鉄道を敷いており、国鉄と似ていると関心を持ち研究を始めた。近鉄は鉄道以外にさまざまな事業を手がけていた。近畿日本ツーリストや都ホテル、近鉄百貨店など多角化を推進し、一流企業に育てていた。この研究から、九州の鉄道事業を支えるには事業の多角化が不可欠だと確信し、取り組んだのだ。

 多角化を成功に導いたのが、冒頭の「業種はオールドビジネス、業態はニュービジネス」だ。JR九州で手がけた事業の大半は、オールドビジネス。しかし、やり方はニュービジネス的な手法を取り入れた。不動産、マンション、飲食、ドラッグストアなどもニュービジネスではない。人口が減少すれば、市場も縮小する。そんなに甘くはない。しかし、そこにニュービジネス的なアイデアや発想があれば伸びる。マンションでも中身を変えたり、売り方を変えたりすれば、売れる物件になることを実証した。

 鉄道もまさにオールドビジネスだが、石井氏はここにもニュービジネス的手法を持ち込んだ。鉄道関係では実績のないデザイナーの水戸岡鋭治氏を起用したのだ。社内からは猛反対されたが、世の中が変わっているなら鉄道も変わるべきと譲らなかった。石井氏は、水戸岡氏、車両専門家と頻繁に協議の場をもった。そこは、車両の話をする以上に経営を論ずる場でもあった。この車両でどういう商売をやるか、デザインと経営を密着させた議論を積み重ねた。石井氏は常に真剣に全力を注ぐ。その熱は、人を巻き込み本気にさせる力を持っている。こうして車両デザインで実績のなかった水戸岡氏だが、石井氏と社内の専門家のサポートを受けて「RED EXPRESS」や「つばめ」「ソニック」「かもめ」などJR九州の新しい顔を次々と送り出し大きな反響を呼んだ。「ななつ星in九州」も水戸岡氏の作品だ。

 国鉄時代、新型車両は東京、大阪に導入され、九州には中古しか回ってこなかった。民営化になり、口でいうよりも「見える化戦略」だと考え、水戸岡氏を起用し、車両を新しくした。すると、随分きれいになったといわれるようになった。口先で変わるというよりも効果は大きかった。ニュービジネス的手法が見事に当たったのだ。

 多角化経営を成功させるには、社員が鉄道以外の事業を大事にする風土をつくる必要があるとも考え、本体から社員を関連事業に出向させた。それも将来有望だと思う幹部社員を出した。それで関連事業の社員たちの士気も上がり勢いがつく。人事交流も積極的に行った。

 JR九州を設立して社長を10年間、その後5年間は会長として経営に携わる。石井氏の後には4人の社長が続いた。社長が代わると方針も変わるものだが、ほとんど変わることなく設立時の路線を継承し、JR九州は成長を続けている。厳しい環境下で、経営を立て直し上場の基礎を築いた石井氏の経営手腕は、社内外から高く評価されている。

(つづく)
【宇野 秀史】

<プロフィール>
石井 幸孝(いしい・よしたか)
1932年10月広島県呉市生まれ。55年3月、東京大学工学部機械工学科を卒業後、同年4月、国鉄に入社。蒸気機関車の補修などを担当し、59年からはディーゼル車両担当技師を務めた。85年、常務理事・首都圏本部長に就任し、国鉄分割・民営化に携わる。86年、九州総局長を経て、翌87年に発足した九州旅客鉄道(株)(JR九州)の初代代表取締役社長に就任。多角経営に取り組み、民間企業JR九州を軌道に乗せた。2002年に同社会長を退任。

 
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