2024年04月30日( 火 )

安倍政権崩壊の予兆となる偽証=「記憶にありません」(前)

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青沼隆郎の法律講座 第4回

再生復活する大本営発表

 戦前、政府は戦況の発表の際、虚偽情報を大本営発表し、マスメディアはそれをそのまま報道した。これにより国民は戦況の真実を知ることができなかった。これと同じく国民に真実が知らされない結果が現在再生されている。それは政治家や政府高官が虚偽証言し、テレビ解説者がその虚偽証言を当然の如く是認し、誤ったコメントを述べ、結果、国民は真実を知らされない状況となっている。国民が真実を知らされていないという結果はまったく同じである。

偽証にほかならない「記憶にありません」

 証人喚問を無力化させる、もう1つの有名な証言技術が「記憶にありません(ございません)」である。
 最初に、「宣誓した」証人が、このような証言を公然と行うことは、法律制度や法律学の輸出元である西欧キリスト教文明圏の人々には理解しがたい。
 宣誓は神に対するものであるが現実には眼前の聴衆、世間に対するものである。大衆がその素朴な感覚で虚偽と判断できる証言は、厳密な証明を必要とすることなく、「偽証」と社会的に認定される。
 これは嘘を強く禁忌する欧米市民の民度(法や権利の意識)と、為政者の嘘の多さに倫理的にも鈍感になった日本人の民度の差に起因している。
 事実の認定権は国民の基本権であり、裁判官や法律家の専権ではない。
 記憶の一般的属性として、非日常的体験は経年劣化しないという経験則がある。100万円を寄付する行為は一生に一度あるかないかの非日常的行為であり体験である。この事実が実際に存在したなら、当事者がその事実について「記憶にありません」と言うことは偽証だと断言できる。

最終的な回答にはなりえない

 「あなたは籠池氏に100万円を安倍晋三の名前で寄付されましたか」との質問に対し、「記憶にありません」は何について記憶がないのかは不明である。ただ、聞くほうも答えるほうも「寄付したか否か」が最重要事項と暗黙のうちに了解しているから、答弁の趣旨は「寄付したかどうか記憶にありません」という意味に理解できる。
 問題は、寄付の記憶がない場合、何と答えるかである。これは人間の行動心理に関する経験的な共通認識でもある。つまり、答えは「寄付していません」以外にはあり得ない。
 通常、記憶がなければ質問事実の存在は否定される。この論理的にも心理的にも当然の結論をあえて回避した証言を行うことが虚偽証言たる所以である。

質問者の誤った誘導

 「記憶にありません」に対する質問者のよくある誤った誘導が「論理的分析」質問である。
 (1) 「記憶がないから寄付はなかった」というのですか。
 (2) 「寄付があったともなかったともいえない」というのですか。

 (1)は経験則にそった選択肢、(2)は論理則にそった選択肢である。どちらも成立するが同時には成立しない。(2)の回答は記憶の喪失範囲と程度に依存する。記憶の喪失範囲が広く、その程度も大きい場合に成立する命題で、通常は記憶がなければ質問事実も存在しないと判断・認識するのが経験則である。このような前提に立った分析なしに、二者択一の選択をせまるところがすでに質問者の独善的で誤った誘導となっている。
 結局、よほどの特殊な事情がない限り、結論は1つしかなく、二者択一の前提は誤りである。

証言者の動機

 「記憶にありません」は、最終証言でない性質上、後日訂正が可能である。つまり、「記憶まちがいでした」「記憶がよみがえり、質問事実はありました」という逃げ道が存在する。
 全体的に考察すれば偽証そのものである。記憶状態も生理的事実の1つに間違いなく、「記憶がない」と答えたことを後日、「記憶がある」と答えるのであるから生理的事実に関する偽証であることは間違いない。
 また、証言者には、記憶が喪失したこと、および喪失した記憶が蘇ったことについて理由を説明する責任が発生する。記憶の喪失・再生について、合理的かつ経験則に合致する説明がない限り、「記憶を喪失した」との主張は虚偽である。
 「記憶にありません」に対して、さらに質問事実の存在を示す証拠が提示され、「記憶がない」という証言の不自然さ(経験則違反)が立証される。しかし、これまで十分な追及が行われてこなかったため、証言者は「記憶にありません」を安心して多発しているのである。

(つづく)
【青沼 隆郎】

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)
福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

 
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