2024年05月04日( 土 )

中国の経済成長の陰で~福博の中華料理の名店が黒字閉店(後)

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華風 福寿飯店

日中友好の懸け橋

福寿飯店・李一族の取り組みやエピソードは、新聞でも度々紹介された(フクニチ新聞)
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 福寿飯店の閉店が惜しまれる理由。それは今年81歳の李会長が、店を構える傍らで“日中友好の懸け橋”となって活躍していたからでもある。「困った人がいれば助ける」と、自分と同じ山東省出身であればなおさら、できる限りの支援を行った。お金に困っている同胞にも援助の手を伸ばし、李家は面倒見の良い一族として知られていたという。

 72年の国交正常化前後は約5万人だった日本在住の中国人は、60年代後半から始まった中国の文化大革命の後、一気に増えた。その際、中国本土からやって来る同胞たちの受け皿として、福寿飯店の李会長を始めとする華僑一族の一助があった。

 「華風 福寿飯店」の歴史を紐解くと、約100年前の神戸で誕生した中華料理店がルーツとなる。李会長の先祖が神戸で中華料理店を経営し、戦時中は空襲により店も家も焼失したものの、その後、営業を再開させた。神戸で13家族が暮らしており、そこから日本全国へ散らばり、素材の味を最大限に引き出す中国八大料理の1つ「山東料理」を広めた。

 李会長は、中国・山東省の出身。9歳まで過ごし、戦後、神戸に住む兄や親戚を頼って来日した。戦後、政情の混乱を恐れた両親に送り出され、祖国を後にしたという。神戸には、42年に来日した実兄・李徳福氏と中華料理店を営む叔父・李秀貴氏がいた。空襲で家も店も焼失したが、戦後、その焼け跡で細々と店を再開させ、そこに李会長が来日。その後、高校時代まで神戸で過ごし、久留米大学への進学を機に福岡へと移った。

 大学時代は、叔父・秀貴氏が下川端にオープンした「福寿飯店」を手伝いながら、大学に通ったという。李会長は、天神から久留米までを西鉄電車で往復するなか、大学の帰りに当時、現在のアクロス福岡にあった福岡県庁と中国との貿易を行う商社(九州貿易)に足繁く通った。得意の中国語を武器に仕事を手伝うことが楽しかったという。その経験が、中華料理店経営とともに日中友好に尽力する活動へとつながっていく。

 1972年の日中国交正常化まで、一度、中国に戻れば、日本政府から再入国の許可を得ることは難しく、故郷に帰ることは簡単ではなかった。李会長が初めて故郷に帰ったのは73年。初来日から20年以上も後のことだった。

 李家を語るうえで、もう1つ感動的なエピソードがある。創業メンバーの1人で叔父の秀貴氏は60代で病を患い、寝たきりの状態が続いた。祖国にいる母と直接会うことができなかったのだが、79年3月、103歳の母親・趙永華氏がわざわざ息子を訪ねて来日。遠い日本にいる我が子に会うために、現在のように交通事情が良くないなか、列車や船などを乗り継いではるばる来日した。このことが当時、新聞などで大きく取り上げられ、子を思う母心の強さと李家の絆の深さが紹介された。

味を支えた友好の絆

 「懸命に働いて地域に貢献してこそ友好は築ける」という李一族の教えがある。李会長は、日中友好のために惜しみない支援を行った。日中国交正常化後、福岡市中央区天神の福岡スポーツセンターで、日中友好を目的とした中国の商品の展示販売会を開催。89年には西日本シティ銀行(当時は西日本銀行)の取引先メンバーらを連れ、中国・煙台へ連れて行ったこともある。日本国内はもとより中国の経済発展にも貢献したとして97年、李会長が60歳の時、山東省政府が氏の自伝を出版するなど中国国内でも評価は高い。

 外食産業はいま、人手不足、原材料価格の高騰、そしてビールなどアルコール飲料の値上げというトリプルパンチの打撃を受けている。大手飲食チェーンも多くが利益の業績予想を下方修正するなど、全体的に経営が悪化している状況だ。業種の垣根を越えた競合も発生しやすく、競争激化が続くなか、「福寿飯店」と同様の問題を抱えるところは決して少なくはない。料理の味を維持しながら、これまで店を続けることができたのは、人と人とのつながりを大事にしてきたからではないだろうか。

(了)
【矢野 寛之】

(中)

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