2024年03月19日( 火 )

貴乃花親方辞職事件の真実(6)

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青沼隆郎の法律講座 第16回

 弁護士の無知無能を再び見せつけられた。もっとも弁護士の最高能力性・全知全能性を無条件に信じ込まされてきた国民には、この表現は受け入れてはもらえないだろうが。
 そこで具体的にその無知無能ぶりを指摘したい。

(1)事件の本質の無理解

 日馬富士暴行事件は単純な傷害事件ではない。これをめぐって、貴乃花親方の辞職まで引きおこした、ある意味、巨大な陰謀を背後にもった公益財団法人を舞台にした犯罪事件である。
 不都合な真実を隠し続ける理事会と不正を主張する貴乃花親方との闘いがその本質であるから、提訴がその不正を明らかにする手段であるなら格別、かえって、問題を金銭賠償事由の有無という問題に限局矮小化してしまう今回の提訴はまったく意味がないどころか、理事会の不正を暴く唯一の強力な手段を自ら失うこととなった。今回の提訴を一番喜んでいるのは理事会と白鵬である。

 白鵬は共同不法行為の可能性があるが、真実が隠蔽されているため、とくに先行した刑事手続きが事件を日馬富士の単独犯事件として処理したため、真実が明らかにされない限り簡単には民事提訴できない。しかし、そのために、逆に真実を明らかにするためにも白鵬を共同被告とする必要がある。十分な証拠による立証がなければ、請求が棄却されるだけである。
もし、貴ノ岩の弁護人が、刑事訴訟の相対性を知らないのなら、もはやその無知は「過失犯」でさえある。

 訴訟の相対性とは、各一個一個の裁判は、その裁判官限りの、その裁判で提出した証拠限りの司法判断であって、証拠の異なる別訴に何ら影響を与えないという当然の原則である。わかり易くいえば、証拠が異なれば、当然異なった判決となるという認識科学の基本的原則である。(日本の裁判法では同じ証拠であっても、裁判官は異なる認定ができるとする条文がある[自由心証権]。この科学認識の基本を無視する条文で一番迷惑し、困っているのは主権者である国民である。)

 これは、上訴制度における判断の拘束、とくに既判力の理解を正確にする必要がある。
 既判力の論理的意味は同じ証拠であれば同じ結論になるという条理に基づき、一事不再理を定めたものである。裁判で提出された証拠や理由が異なれば、まったく逆の判決が出る。一番身近な例では、諫早湾潮受堤防の開門の是非をめぐる裁判である。先に開門せよとの判決が出て確定していながら、次に開門禁止を求める裁判が提起され、それが容認された。

 理事会を共同被告としないことは、理事会の使用者責任、管理者責任を不問にする意味で不当であるばかりでなく、貴乃花親方の理事降格処分の不当性や違法性にもつながる真実の究明を自ら放棄したことになる。貴乃花親方が将来、理事会を相手に訴訟を提起する可能性をまったく考慮していないお粗末な提訴といえる。これは明らかに貴ノ岩の弁護人が事件の全容、とくに、公益財団法人法の規定を知らないことに起因する。

(2)提訴時期の不適切

 不法行為訴訟の時効期限は3年である。これは3年ギリギリまで事情の推移が確認でき、さらに有利な条件を追加できることを意味する。とくに、貴ノ岩は現役の力士であるから、何も知らない国民は、力士が裁判を起こしていいのか、というような極めて低い認識に誤誘導され、不理解・誤解の渦に巻き込まれる可能性がある。協会寄りの似非知識人は無数にいるから、彼らが扇動者となって、貴ノ岩の力士人気を故意に貶める策動をすることさえ予想される。

 従って、いつでも取れる必ず取れる賠償金提訴は最後の最後まで、「伝家の宝刀」とすべきことが、戦略的に必要であった。しかも報道によれば、後遺症害に対する損害の有無、将来の逸失利益の議論がなされていないようであるから、提訴はいかにも拙速である。

 不正を抱え、隠蔽する側は必ず、ボロを出す。今回の告発状事実無根強制事件はその典型例である。このほころびは、事件の背景に公益財団法人の適法業務執行と監督官庁による
 管理監督の問題が遠からず表面化すること、されなければならないことを意味している。そうであれば、提訴はその推移を見ながら行うべきことはいうまでもない。

(3)提訴の弊害

 日本のジャーナリズムは無知に基づく自己規制をするのが常である。個別の裁判を報道することは、どちらか一方に加担する不公正な報道との「いいがかり」を法匪がつけるため、

 裁判報道に消極的になり委縮してしまう。報道しないことが公正な報道という法治国とは到底おもえないジャーナリズムの低能ぶりである。しかし、この自己規制こそ国民主権の無視侵害である。司法権の現実を国民はまったく知らされない状況が永遠に続いている。

 法匪はなぜ、裁判報道に抵抗するのか。それは裁判の場こそ、法匪の無能無知ぶりが表面化、顕在化する場だからである。医療過誤訴訟を体験したことのある医師は、患者側弁護士の医療知識無視の暴論に驚かされる。青色発光ダイオードでノーベル賞を受賞した科学者は、その特許権をめぐる訴訟で、法匪の科学知識の無さにあきれ、日本の裁判は法治国とはとうていいえないとのコメントを残した。

 全知全能の化けの皮がはがれるのを恐れるのが裁判公開に抵抗する本当の理由である。
 一方に加担する不公正報道との難癖をつけるのは決まって実力者・権力者である。通常、訴訟には訴訟を提起せざるを得ない事情がある。それは通例、弱者が強者を訴えるかたちをとる。強者が弱者を訴える必要は事実上ないからである。そうすると、訴訟の報道は一見、弱者に加担したかの如き体裁となる。そこで、強者は報道が不公正である、と法匪を使って難癖をつける、というかたちとなる。こんな低いレベルの難癖1つ反撃できない、しないのが日本のジャーナリストの実力である。その一方で、とんでもない偏った解説をする学識経験者・記者を登場させ、不公正な報道のやり放題である。国民はしっかりと真実を知る必要がある。

(つづく)

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

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