2024年03月29日( 金 )

平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(3)

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 講談社入社以来、平成13年(2001年)に子会社にすっ飛ばされるまで、銀座のクラブや新宿のゴールデン街を含めて、呑み代とタクシー代は一番使った。

 それに比して、雑誌の現場にいる時、まともな記事をつくったことがない。謙遜しているのではない。月刊現代や週刊現代でトップの特集を担当したことがほとんどないのだ。

 現代での最初の仕事は、その年の3月に赤軍派が起こした「ハイジャック事件」で、冷静に連中を北朝鮮に送り届けたJAL機機長のインタビューであった。ようやく家を探りあて、何日か夜討ち朝駆けをかけたが、奥さんがすまなそうに「まだ帰っていない」といわれるだけだった。後から、機長は愛人宅にいたことを知る。

 翌年、多くの女性を強姦殺人した「大久保清事件」が起きた。大久保の両親をインタビューすべく群馬県の猿ヶ京温泉へ飛んだ。風呂から出てきて裸で歩いているおかしな老夫婦がいると聞き込み、2人が泊まっていた宿で直撃した。

 だが、「お前たちのような連中には答える義務はない」とにべもなく追い返された。

 73年に立教大学助教授が、愛人の女子大生を殺して一家心中した。恩師の別荘近くに遺体を埋めたのではないかといわれ、警察が大動員され付近を捜索した。

 雑誌記者は記者会見に入れない。やることがないので、同僚と一緒にシャベルを買ってきて、真夜中、別荘付近を掘り返しているところを警官に見つかり、大目玉を喰った。

 74年に起きた「首都圏連続猟奇殺人事件」では、記者たちと現場をほっつき歩き、6件の事件は同一犯人ではないという記事をつくった。逮捕された小野悦男から弁護士を通じて、感謝していると伝えられた。

 小野には無期懲役の判決が出たが、控訴審で自白は強要されたものだと逆転無罪になる。一躍、小野は冤罪の英雄になるが、5年後、同居していた女性を殺して焼却したとして逮捕されてしまうのである。

 下山事件というのを覚えておいでだろうか。三鷹、松川と並んで、松本清張が「日本の黒い霧」と名付けた一連の事件の中で、いまだに真相がわからない謎の多い事件である。

 GHQ占領下の1949年7月に国鉄総裁・下山定則が失踪し、後に轢死体として発見される。当時、GHQから職員の大量解雇を要求されていて悩んでいた下山だったが、自殺か他殺かでメディアを巻き込んで大きな論争が起きた。

 朝日新聞の矢田喜美雄は他殺説の論客で、ライフワークとしてこの事件を追っていた。私は、共同通信の斎藤茂男から矢田を紹介してもらった。若いがおもしろい奴だと思われたのか、事件の極秘資料を見せてもらいながら、秘話を聞かせてもらうようになった。

 あまりにおもしろい話なので、単行本の部署に紹介して『謀殺 下山事件』という本にしてもらった。矢田から「僕が死んだらこの資料は君に上げる」といわれていた。

 矢田の妻も元朝日新聞記者で、はっきりとものをいう明晰な女性だった。だが、不思議なことに、ある日突然、夫婦そろって認知症になってしまったのである。資料に関して、息子に聞いてみたが、どうなったか分からないということだった。あの資料の中に、私がまだ知らない事件の「真相」があったのではないか。そのために何者かが2人を…。今も気になっている。

 私は競馬が好きだ。高校時代にシンザンのダービーを見て以来、馬の美しさと馬券の楽しさを知り、大学時代から三十代半ばで結婚するまで、土日は競馬場通いを欠かしたことがなかった。

 競馬のおかげで作家の山口瞳と知り合い、彼から古山高麗雄、虫明亜呂無、常盤新平、寺山修二、大橋巨泉、米長邦雄、本田靖春など、多くの人と知り合い、酒を呑み、交遊してきた。親しかった競馬評論家・大川慶次郎ではないが、競馬をやっていなければ築50年にもなるボロ家を“改築”できていただろう。 

 政治家との付き合いも多かった。当時民社党のホープといわれた麻生良方の連載をしたことで、彼とはよく銀座で遊んだ。お洒落で演説の見事な中年紳士だった。

 ある晩、3軒クラブを梯子して請求書が30万円を超えてしまった。ママたちにお願いして分割して請求してもらったが、一晩で10万円というのはよくあった。

 麻生が都知事選に出馬した時は、30歳そこそこで選挙参謀のようなこともやった。

 その後も、河野洋平、山口敏夫、保岡興治など、与野党を問わず政治家とは付き合いが多かった。

 私の彼女が勤めていた「JUN」にも作家や政治家たちを連れて何度もいった。塚本ママはよくしてくれたが、困ったのは、請求書を送ってこないことだった。聞くと「いいのよ、出世払いで」というだけ。かえって行きにくくなって、足が遠のいたが、それが彼女の狙いだったのかもしれない。

 少しおカネの話をしておこう。初任給は5万円程度だったと記憶している。人事課からは、夜、人と会って食事をしたり、酒を呑むことがあるときは、その人間と別れた時間までを残業とするべしと教えられた。

 現代に配属された最初の月に残業が200時間近くになった。先輩編集者に連れ回されたり、ブンヤと呑んで、帰りは毎晩2時3時。昼間働いている時間より、呑んでいる時間のほうがはるかに多いのだが、残業代は青天井だった。

 さすがに人事課に呼ばれ、もう少し減らすようにはいわれたが、毎月100時間を切ったことは一度もなかった。

 4年目に週刊現代へ異動させられた。そこでは毎週金曜日に編集部員に5,000円ずつ取材費として手渡してくれたのだ。少し前は1万円だったという。私は週末の競馬で消えたが、奥さんに渡していた者もいたようだ。

 その頃は銀座から自宅までタクシーで帰っても3,000円はかからなかった。

 講談社は3,000円まで領収書なしでタクシー代を請求できたから、社内には「赤伝(タクシー代)長者」といわれる先輩がいた。外回りをしないのに、せっせと赤伝を書いて、定時には帰ってしまうのだ。そうやってカネを貯め、豪邸を建てるのだが、それでも会社は見て見ぬふりだったようだ。

 取材のときに使う飲食・酒代も天井はなかった。だが、当時はクレジットカードやツケのきく店が少なかった。今も銀座五丁目にある三笠会館を使うようになったのは、ここはツケがきいたからだ。各階ごとに和食からフレンチと様々な料理があるから、毎晩、階を替えて呑み食いしていた。

 昼間顔を合わさない先輩編集者たちが、夜になると三笠へ集うから、「編集部別館」と呼んでいた。

 経済成長と共に雑誌や単行本の売上も右肩上がり。講談社を含めたいくつかの出版社は、一流企業の仲間入りし、文系の学生からの就職志望でも上位を占めるようになってきた。

 そんな背景があったのだろう、講談社はあの当時、底抜けにおおらかであった。

 当時、雑誌記者たちは「トップ屋」「首輪のない猟犬」と呼ばれ、脛に傷のある芸能人や政治家に恐れられていた。

 そんな連中と、ろくに仕事もせずに毎晩、新宿ゴールデン街に入り浸り、取材だと称して、作家、映画監督、イラストレーターたちと浴びるほど酒を呑んでは徘徊していた。

 そんな能天気な編集者生活も、昭和の終わりとともに変わっていくのである。

(文中敬称略=続く)

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

連載
J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
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『エルネオス』メディアを考える旅
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