2024年04月23日( 火 )

ゆとり教育抜本見直しに命をかけた20年(3)

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進学塾「英進館」館長/国際教育学会理事/福岡商工会議所議員
筒井 勝美 氏 78歳

 1979年(昭和54年)に創業した英進館は、3年間の塗炭の苦しみを経て、その後順調に発展を続けていった。

▼創立5年目=生徒数250人超え。教室不足でやりくりに苦労。
▼6年目=中央区薬院に4階建て、建坪600m2の自社ビルを建設。
▼7年目=久留米附設中学校に17人合格。福岡市でトップに。
▼8年目=生徒数950人。個人経営から(株)に法人化。
▼9年目=教師の質を重視して貫いていた本校一校集中主義を転換。東区香椎に分校を初めて開校。
▼10年目=荒江校(早良区)、西新校(中央区)開校。生徒数1,600人。スタート時から100倍に。

 この年(1988)(昭和63年)、筒井氏は最初に塾を開いた大名に近い西鉄グランドホテルで「10周年を祝う会」を開催した。苦境を支えてくれた両親、義母はもちろん、合・不合判定テストの使用を許可してくれた四谷大塚の鈴木康夫理事長、九州松下電器の益田正文取締役、親友たちもお祝いにも駆けつけてくれた。時には1人で授業を行い、生徒募集のチラシ配りや教材づくり、教室・トイレ掃除など、妻である幸子氏と必死に頑張った10年間の日々が、走馬灯のように筒井氏の脳裏を駆け巡った。

 一方で、筒井氏にはエンジニア出身ならではのこだわりがあった。進学塾を始めた時から理数離れが進む公教育に強い危機感をもち、子どもたちが自然科学分野に対する関心を失ってしまうのでは、と心配していた。そこで87年(昭和62年)12月完成の中学部校舎に初めて理科実験室を完備。その後も各地の拠点教室には必ず理科実験室を設け、それが英進館の特色となった。

 初めての理科実験室設置から2年後の89年(平成元年)、KBC(九州朝日放送)の朝の番組「モーニング・モーニング」の取材を受け、理科実験の様子が毎日15分間、1週間にわたって放映された。

 翌年にはNHKがニュースで英進館の理科実験風景を全国放送するなど、学習塾での理科実験というユニークな取り組みが、同業者をはじめ、全国で大きな話題となった。

 ただ経営的には、専任教師や顕微鏡などの実験器具をそろえる必要があり、理科実験部門に限れば年間2,000万円の赤字だった。だが、「子どもたちに理科を好きになってほしい」「科学への探究心をもってほしい」という筒井氏の強い思いから、今日まで続けられてきた。

 創立13年目の92年(平成4年)に、東京大学工学部を卒業した長男・俊英氏が、ともに英進館で学び、灘高校に合格した友人たちと入社した。俊英氏らが熱心に取り組んだのが、超難関中学入試を対象にした算数のオリジナル教材の開発だった。超難関中学入試は算数の出来不出来で合否が決まるためで、その後、このオリジナル教材で特許も取得した。翌年以降もラ・サール、久留米附設、灘の各超難関中学に多数の合格者を出すなど、実績アップと教師全体の質の向上につながっていった。

 俊英氏の入社から3年目には、西日本一の合格実績を記録するようになった。首都圏の超難関中学と呼ばれる開成、麻布、桜陰の3中学に合計34人が合格して全国5位にまで躍進。超難関中学受験者の指導を俊英氏が受け持つようになってからの成果であった。

 この時期から現場のことは徐々に長男に任せ、社団法人「全国学習塾協会」の理事に就任し、懸案の「子どもの学力低下問題」に重点的に取り組む活動へとシフトチェンジしていった。そして、英進館創立20年目の98年(同10年)から、ゆとり教育の抜本見直しに向けた取り組みが始まった。

(つづく)
【本島 洋】

<プロフィール>
筒井 勝美(つつい・かつみ)

1941年福岡市生まれ。63年、九州大学工学部卒業後、九州松下電器(株)に入社。1979年「九州英才学院」を設立。その後「英進館」と改称。英進館取締役会長のほか、現在公職として国際教育学会(ISE)理事、福岡商工会議所議員、公益社団法人全国学習塾協会相談役等。2018年に紺綬褒章受章

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