2024年03月30日( 土 )

ゆとり教育抜本見直しに命をかけた20年(10)

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進学塾「英進館」館長/国際教育学会理事/福岡商工会議所議員
筒井 勝美 氏 78歳

 2012年(平成24年)から文部科学省による「ゆとり教育見直し」の新学習指導要領が完全実施されて4年後の16年(同28年)、筒井氏は塾業界10団体が創設した「日本民間教育大賞」の民間教育最高功労賞を受賞した。

 理由は、本来の西日本地域での塾教育の発展に寄与したことに加え、我が国における「理数教育」の推進・強化に尽力した、筒井氏の約20年間にわたる「ゆとり教育抜本見直し」の闘いの功績を認められての受賞だった。

 振り返れば、1979年(昭和54年)、38歳の時にエンジニアから転身し、英進館を創立。

 その後、塾生の学力低下に気づき、“元凶″である「ゆとり教育」の見直しを叫び続けて15年。12年の新学習指導要領改訂によってゆとり教育見直しへと転換、ゆとり論争は一区切りを迎えた。

 ただ、この間、理科・数学を中心に教科書の学習内容が大幅に削減され、思考力を養う文章問題や図形の証明問題は半減。昔、学校の図書館で読んで発奮した偉人伝も見かけなくなってしまった。

 さらに教育の根幹にかかわる「精神」「勤勉」「努力」という言葉が教室から消え、マナーや集団規律、精神力まで凋落させた文科省の「ゆとり教育」は大きな問題を残した。

 また日本の自然科学技術力でも、ノーベル賞受賞者の受賞対象の研究・論文発表年齢は、30歳前後から40代後半が多いのだが、発表される論文の数は02年・07年をピークに日本だけが下降線をたどっている。ゆとり教育にともなう理数教科の基本学習の広範囲な欠落は、論文数の下降線と決して無縁ではないと筒井氏は見ている。

 1992年(平成4年)から2012年(同24年)までの20年間に、義務教育を受けた人たちは「ゆとり教育」の大変な犠牲者であり、そのブランクは一生ついて回る。ゆとり教育は、勉強しようという子どもの意欲や学ぶ機会を失わせた。コツコツ勉強して技術力を上げ、日本が豊かになった歴史を忘れてはいけない。これからも日本の教育再生のために力を尽くしていきたい――。筒井氏の教育に対する情熱は英進館創立当時のままであり、まだまだ衰えてはいない。

 最後に、あまり一般には知られていないが、筒井氏のゆとり教育抜本見直しの活動が、学習塾業界の危機を救ったエピソードを紹介してこの連載の締めくくりとしたい。

 ゆとり教育に危惧を抱いた筒井氏が本格的に取り組み始めた矢先の1999年(平成11年)、文部科学省が塾規制に関する「生涯審」の答申内容を発表した。それは過度の塾通い、夜7時以降の通塾を規制(罰則付き)するというものだった。

 全国で午後7時以降の塾運営ができなくなれば、経営者にとって死活問題であり、児童・生徒たちの学力低下は避けられない。この深刻な事態を解決するため、塾経営の経験がある下村博文衆院議員の仲介で、学習塾団体と文部科学省の公式会合が4回ほど開かれた。

 ここで注目を集めたのが数カ月前に出版されたばかりの筒井氏の著書「理数教育が危ない」だった。

 「理数教科の学習内容が30~40%削減」「化学反応式が20年間で5分の1に」「学力低下を示す塾生の学力テスト調査」など、筒井氏が丹念に調べ上げたゆとり教育がもたらす弊害のデータに、当時の初等中等教育局生涯学習課長は「知らなかった」と驚きを隠せない表情だった。

 「文科省はデータ分析ができていない。勝った」―――筒井氏の心証どおり、その後、答申の話は立ち消えとなった。かくして彼のゆとり教育抜本見直しの一途な活動が、学習塾業界の最大の危機も救ったのだった。

(了)
【本島 洋】

<プロフィール>
筒井 勝美(つつい・かつみ)

 1941年福岡市生まれ。63年、九州大学工学部卒業後、九州松下電器(株)に入社。1979年「九州英才学院」を設立。その後「英進館」と改称。英進館取締役会長のほか、現在公職として国際教育学会(ISE)理事、福岡商工会議所議員、公益社団法人全国学習塾協会相談役等。2018年に紺綬褒章受章

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