2024年04月24日( 水 )

日本橋兜町・茅場町 金融のまち復権へ(前)

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古くから金融のまちとして知られる日本橋兜町と日本橋茅場町。かつて証券マンで賑わっていたこのまちも、バブル崩壊と同時に証券事務のシステム化が加速し、1999年4月に場立ちが廃止されたことで、人の姿は少なくなり、賑わいが失われてきている。東京都は「国際金融都市・東京」構想を提唱し、中央区もまちの将来像として「日本橋七の部地域まちづくりビジョン」を策定。まちづくりの目標と目標実現に向けた指針を定め、地域のさらなる発展を目指している。地元デベロッパーの平和不動産(株)も、「日本橋兜町・茅場町再活性化プロジェクト」を本格的に始動。地元は賑わいを取り戻すべく動き出した。その動向をリポートする。

沼地から証券取引の町へ、兜町&茅場町の歴史

1962年頃の兜町の様子
(中央区立京橋図書館提供)

 日本橋兜町・日本橋茅場町界隈は、今でこそ証券・金融関係の中心地だが、1580年の徳川家康による江戸開府までは隅田川河口部の砂洲であり、一面、茅が生い茂った沼地であった。その後、兜町は江戸時代初期に海岸部の埋め立てが完了。埋め立てた土地部は、東京湾から江戸を守る拠点でもあったため、水軍大名などの屋敷で固めた。

 同時に埋め立てられた茅場町は、徳川家康の江戸城築城の際、茅商人を当地に移住させ、市街地としたため、茅場町の町名の由来となったという説がある。兜町が武家屋敷街であったのに対して、茅場町は商人の町として賑わい、酒問屋や材木屋、傘屋などの店が軒を連ねると同時に、町奉行支配地の与力・同心の組屋敷も形成されていった。

 明治維新(1868年)後、兜町の武家地が明治政府によって収容されて官有地になると、一部の役所や政府公認の米商会社、大小の銀行が設立され、金融の中心地となっていった。74年には洋風のモダンな第一国立銀行(現・みずほ銀行)が建設され、新都・東京の名所に。その後、米商会社が移転すると同時に、跡地には東京株式取引所が設立されたことで、兜町は“証券取引の町”として大いに繁栄し、日本経済の中心地となっていった。明治から大正、昭和、平成を通じて、「株の町」といえば兜町であった。そのため、周辺には、証券会社や銀行の本支店、保険会社、商社、証券マン相手の旅館や飲食店などが集中。渋沢栄一邸宅、日本興業銀行、旧三井銀行、三井物産、明治生命保険、旧富士銀行、三井物産など、数えきれないほどの重要な金融機関の施設があった。

かつて中小証券会社が立ち並んでいた
兜町の一角(中央区立京橋図書館提供)

 一方、茅場町の旧大名地や与力・同心の拝領地は、三井・三菱グループが土地の多くを所有することになる。兜町と隣接している影響で、株屋が多いだけではなく、米問屋の町としても知られていた。
 だが、大正時代の関東大震災によって、兜町および茅場町周辺一帯は甚大な被害を受け、株式取引所や周辺の木造家屋などがほぼ全壊。これを契機に耐震・耐火の建物が建設され、近代的な街へと再生されていった。1931年には東京株式取引所の建物本館が完成し、兜町のシンボルとして親しまれた。戦後、GHQは取引所の再開を禁止したが、兜町の一角では証券業者による半ば組織的な集団売買が開始され、再び証券の町として蘇ることになる。

(つづく)
【長井 雄一朗】

(後)

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