2024年04月27日( 土 )

【凡学一生のやさしい法律学】憲法改正について(5)

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 以上(前回記事「【凡学一生のやさしい法律学】憲法改正について(4)」参照)は司法権の腐敗の一方の立役者である裁判官についての問題指摘ですが、もう一方の立役者が検察官です。検察官は公訴権の担当行使者ですが、検察官に起訴権の独占を認めていることが、刑事司法の腐敗の根源です。公訴権の独立(検察官の独立)は極めて重要なことですが(例:政治家である法務大臣の指揮権行使が問題となった造船疑獄事件)、これは公訴権の独占とは全く意味が違います。この日本法治主義の歴史的誤解・混同によって、現在の検察官の不正の横行が生まれています。

 起訴権の独占は百害あって一利もありません。これは積極的には起訴権の濫用(村木冤罪事件をはじめとする多数の冤罪)を生み、消極的には起訴権の不行使・不作為による犯罪の恣意的放任(関電疑獄における、犯罪取締役の不捜査・不起訴)を生みます。もちろん不当な不起訴に対する制度として検察審査会制度がありますが、これがほぼ画餅であることを国民は知りません。いくらかは検察審査会主導で起訴された事件があることも、画餅である本質を隠蔽する効果があるためでしょう。

 検察審査会が画餅である証拠はその議決文にあらわれています。議決文は完全な法律文です。それもそのはず、議決文は補助審査員の弁護士が作成したものだからです。問題はだれが、弁護士しかなれない補助審査員を選任任命したかです。それは管轄裁判所です。ここまで説明すれば、検察審査会の議決は、素人相手の弁護士が自由自在に誘導している事実を指摘する必要はないでしょう。そして、その自由自在を許容しているのが、厳重で極端な「守秘義務」であることも見逃せない事実です。

 公務員は国民に対して守秘義務を負っています。一般市民である無作為抽出の検察審査会審査員は一体誰に対して守秘義務を負わなければならないのでしょうか。確かに、刑事告訴告発事件ではまだ被告発人は被疑者ですらありませんから、そのプライバシーの権利・人権は最大限に尊重・保障されなければなりません。仮に被告発・告訴人が被疑者・被告人となっても、否、有罪となっても、裁判手続で公開された以上の個人情報が検察審査会審査委員から漏洩することは許されません。

 しかし、一方では国民の知る権利も重要です。この法益の対立矛盾の調和点が、個人を特定しないこと、特定できない程度の情報公開なら許されるということです。しかし、現実には検察審査会で審査される程度に熟した事件であれば、被告発告訴人はすでに個人名が特定公表され公知の事実となっていることが多く、その意味で、個人情報の漏洩の問題は起りません。そうであるなら、審査会における議論は一層、公開されてしかるべきですが、実体は補助審査員弁護士の恣意的誤誘導が発覚しないため、完全秘密の闇の中のものとなっています。これでは素人の市民が「だしに使われた」以外のなにものでもありません。

 本題に戻ります。前述の矛盾は極めて重大な結果を日本の政治にもたらしています。それは誰が最終的な憲法違反認定権者かという問題です。日本国憲法が普通の日本語で記述されている限り、その条文は普通の事理弁別を持つ日本人が解釈できて当然であり、何が違憲で、何が合憲かについて、国民は判断力を有します。ところが、日本の実際の教育では、基本的な法学教育が意図的に排除された結果(知らしむべからず依らしむべし)、国民は、法律解釈は特別な専門家しか出来ないものと飼い馴らされてしまいました。もちろん、実際の法律条文が極めて難解な表現になっている事実もこれに寄与しています。

 しかし、逆に、憲法は比較的普通の日本語で、特に難解とされる専門用語を使用してはいません。むしろ、部分的に、従来日本に無かった法律学・法理論上の概念の導入について、法律学者の怠慢で国民に充分に解説・説明してこなかったことが問題です。

 日本の憲法学はこの「誰が最終的な憲法判断者か」という究極の重大問題を常に回避してきました。それを象徴する標語が「最高裁は憲法の番人」です。これ自体は問題がないのですが、問題は「番人が番人の役を果たさない場合」が全く考慮・議論されていません。

 日本の現状は誰の目にも明らかなように、至る所で違憲状態、つまり、非民主的であり、国民主権が否定されています。現状は民主主義ではなく明らかに官主主義です。

(つづく)

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