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2019年11月26日 10:44

珠海からの中国リポート(12)

福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

華人

 Nさんは曽祖父が明治時代に中国福建省からやってきた華僑の子孫。子どものころ父に連れられてよく横浜中華街に行った私だが、今になってようやく横浜が華僑の町で、長崎や神戸もそうなのだと気づく。

 Nさんは曽祖父の故郷を訪ねに福州へ渡ったが、そこで商売に失敗し、場所を珠海に移したという。珠海では成功しているかどうか。いつも洒落た広東料理の店に連れて行ってくれ、ごちそうしてくれる。着ている服もほかの中国人と比べ、格段に洒落ていて、商売人というより上級ビジネスマンの面持ちである。商売はきっとうまくいっているのだろう。

 先祖が福建人と聞くと、元ダイエーホークスの監督・王貞治氏を思い出す。ホームランの世界記録をもつあの偉人である。私が彼を「偉人」と思う理由はホームランだけではない。その言動が思慮に満ちていて、ほかのプロ野球選手とは比べものにならないからだ。

 王貞治氏には故人となった兄がいて、慶応大学病院の医師だった。弟の彼も大学に進学しようかと迷ったようで、『自伝』(?)を見ると、大学へ進学したらしたで何らかの成功を収めただろう、と悪びれもせずに語っている。勉強はよくできたようで、その頭脳の明晰さはインタビューでの受け答えにも現れている。

 私が彼を「中国人」と強く感じたのは、引退のセレモニーの時だったか、父親をグラウンドに連れ出して、観衆の前で自分を育ててくれた親への感謝を表したときである。日本人にはない「孝」の精神、と感じたものだ。

 もう1つ思い出すのは、ある雑誌のインタビュー記事。インタビュアーが「王さんの成功の秘訣は何ですか?」と尋ねると、迷わず「怠けることじゃないかな」と答えている。選手は日々練習する。これは当たり前だが、時には怠けることも大事であるという考え。陰と陽、正と負、このどちらも大切だという中国古来のバランス感覚がその言葉に凝縮されていた。本人も気づいていないかもしれないこの精神的伝統。これに私は目を見張った。

 華僑のNさんに話を戻すと、華僑とは中国を常に外から眺め、外地にいるだけに自らを華人であるとつよく自覚できる人のようである。Nさんは王貞治氏同様、中国の歴史物が好きなようで、「『三国志』が好きでね、あれは中国そのものだと思ってます」という。つねづねどうして中国人がそれほど『三国志』が好きなのか知りたかった私は、Nさんにその答えを求めた。すると彼曰く、「『三国志』はですね、中国人はあれを見て現実を知り、難しい状況を乗り越えるための知恵を学ぶんです。人間は何をするかわからん生き物だが、たとえ敵であっても人間ならば付き合っていける。そういう考え方をあそこに学ぶんです」

 なるほど、とこの話を聞いて思った。アメリカのトランプ大統領は中国に貿易戦争を仕掛けたが、これに対して中国の首脳部は「そちらがそういう気なら、こちらもとことん付き合いますよ」と返答している。アメリカにとっては「敵」は消すべきものに過ぎないのに、中国にとっては「敵」もまた付き合いの相手なのだ。この発想のちがいが今後の世界史に反映するだろう。どのような結果が待っているかわかりかねるが、アメリカが賢ければ、敵同士の関係も友好関係に転ずるだろう。

 Nさんはこんなことも言った。「若いころ、物理が好きで、いろいろ本を買いあさったんです。物理学者は知性の最先端だと思ってたもんですから。ところが読んでみると、中国では当たり前の知恵になっていることが意外に多かった。磁場の理論とか、陰と陽の引きつけあう力とか、作用と反作用の法則とか、どれも中国思想にあるんです」

 Nさんを商売人だと決めつけていた私は、これには驚いた。そして、「問題は、西洋人は知性は発達していますが、それを社会に還元しませんね。というか、技術を発展させての貢献はあるんですが、社会全体としてみれば、科学の貢献度は低いと思います」という彼の言葉を聞くと、中国科学史の大著をものしたイギリスの科学者ニーダムの思想を思い出さずにいなかった。

 ニーダムは中国の科学が中世では世界の最先端にあったのに、その後西欧に追い越された原因を社会倫理上の問題と考えていた。すなわち、中国は西欧とちがって社会構造を破壊してまで真理の追求をしなかったのだと言い、そこに中国文明のメリットがあると主張したのだ。なるほど、中国思想においては何よりも人倫を優先することが重要で、それが科学的思考の発達を妨げてきたことはたしかだ。伝統の中国科学は人間社会と宇宙構造を一致させて考えるものだから、社会の秩序を壊してまで発展することはなかったのである。

 もっとも、現代中国が科学をどのように発展させようとしているのかは予断を許さない。はたして、中国は全人類に新しい科学文明のモデルを提供できるのかどうか。これまた、中国の世界における存在意義に関わる大問題の1つである。

(つづく)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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