2024年06月23日( 日 )

漁村から炭鉱のまちを経て 持続可能な発展を目指す「姪浜」(前)

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 現在、世界的にSDGs(持続可能な開発目標)の潮流が広がるなかで、日本においても国の主導で、持続可能な経済社会システムを実現する都市・地域づくりを目指す「環境未来都市」構想が進められている。持続していくためには、資源の有効活用が欠かせないが、成り立ち自体にこの要件が組み込まれたまちがある。福岡市西区の姪浜(めいのはま)だ。

【姪浜の由来】
 神功皇后(第14 代天皇・仲哀天皇の皇后)が三韓征伐からの帰途、この地に上陸した際に、衵(あこめ:女性用着物の一種)を洗って干したことから衵ノ浜(あこめのはま)と称された。やがて転訛して、「姪浜」と呼ばれるようになったといわれている。

明治時代の姪浜漁港
明治時代の姪浜漁港
(写真:姪友会「郷土写真集2002年姪浜とその周辺」より抜粋)

海辺のまちから炭鉱のまちへ

 今津湾と博多湾に面した姪浜は、古くから漁村として栄えてきた。「姪浜漁港」の存在からも、その名残を感じることができる。海の恵みに支えられてきた姪浜だが、一方で、その立地ゆえの脅威に晒されたこともある。「蒙古襲来」である。鎌倉時代には、モンゴル帝国(元朝)による侵攻に備え、姪浜の海岸沿いに「元寇防塁」が築造。同跡地は現在も国指定史跡として保存されている。

 このような危機に直面しながらも、姪浜は海辺のまちとして、漁業や製塩業を主力に発展を続けた。江戸時代に入ると、参勤交代のために造成された「唐津街道」の宿場町としても活気づく。旅人を相手にした商いも盛んになり、町家や宿が建ち並ぶその様は「姪浜千軒」とも呼ばれた。

 唐津街道という交通網整備を商機に、漁師町と宿場町が共存する交流拠点として活況を呈するようになった姪浜だが、大正時代には「炭鉱のまち」としてさらなる転機を迎えることになる。

工業化と残された資源

ボタ山と炭鉱夫向けの住宅
ボタ山と炭鉱夫向けの住宅
(写真:姪友会「郷土写真集2002年姪浜とその周辺」より抜粋)

 姪浜では1914(大正3)年に石炭の採掘が始まった。採掘現場の「姪浜炭鉱」(小戸~豊浜エリア)は海に近く、船舶による石炭の運送も可能な好立地。石炭の質も良かったため、石炭産業が姪浜の新たな基幹産業となるのに、さほど時間はかからなかった。

 地元産業の工業化において中心的な役割を担ったのが、姪濵鑛業(株)(現・(株)サワライズ)だった。当時の石炭採掘作業では、坑道の天井崩落などの命に関わる事故も珍しくなかったため、炭鉱診療所(現・早良病院)が開設されたほか、炭鉱夫向けの住宅も用意されるなど、同社によって石炭の採掘に従事する炭鉱夫らを受け入れるための整備も進んだ。

早良病院の裏側はボタ山だったが、今ではマンションに
早良病院の裏側はボタ山だったが、今ではマンションに

 こうして石炭産業を中心として、医療、建設と、多岐にわたる需要が生まれていった。25年には、北九州鉄道(現・JR九州筑肥線)の姪ノ浜駅も開業。姪浜への流入人口は、さらに増加していくことになる。

 33年には2,000名超の雇用を生み出し、年間20万トンの採掘量を誇っていた姪浜炭鉱。しかし、時代の流れとともに、安価な海外産の石油を求める声が高まっていく。そして62年、ついに原油の輸入自由化が実施。石炭から石油への“エネルギー革命”である。

 同年12月、姪浜炭鉱は閉山。雇用も失われ、炭鉱のまちとしての姪浜の盛況は過去のものとなった。だが、姪浜はそれで終わらなかった。残された資源を有効活用することで、まちとしてのスケールアップをはたしたのだ。その残された資源とは、ボタ山(石炭採掘時に発生する捨石(ボタ)の集積場)だ。

1933年の姪浜の街並み
(写真:姪友会「郷土写真集2002年姪浜とその周辺」より抜粋)
マンションが建ち並ぶ現在の姪浜

(つづく)
【代 源太朗】

(後)

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