2024年03月28日( 木 )

区画整理完了はスタートライン 香椎はにぎわいを取り戻せるか――(1)

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JR駅前広場が刷新、新たな香椎のシンボルに

 福岡市東区・香椎が生まれ変わりつつある―。

歩道の舗装工事が進められるセピア通り(1986年2月)
歩道の舗装工事が進められるセピア通り(1986年2月)

 2019年3月、JR香椎駅の駅前広場の整備が完了し、全面供用を開始。駅前広場は、土地区画整理によって3,400m2まで拡張された。

 以前のJR香椎駅は、セピア通り方面から駅に向かって上りの傾斜となっていたが、今回の再整備により、広場部分の土地を削って高さを下げたことで傾斜を緩和。それにともない、駅舎部分と広場部分との間に約2mの段差が生まれたが、エレベーター・エスカレーターや階段を設置することで対応している。駅ビルの正面には、目に鮮やかな朱色の柱がシンボリックな、香椎宮の拝殿をイメージした大屋根を設置。その下には、漢字で「香椎駅」と書かれた銘板も取り付け、“香椎の玄関口”としての新たな駅前広場の存在感をアピールしている。

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建替え前の旧・JR香椎駅
建替え前の旧・JR香椎駅
駅前広場が刷新されたJR香椎駅
駅前広場が刷新されたJR香椎駅

 

 JRの鹿児島本線と香椎線との乗換駅であるJR香椎駅のほか、西鉄貝塚線の西鉄香椎駅、福岡都市高速1号線北端の香椎出入口などを擁しており、香椎は福岡市東部の交通の要衝でもある。

 だが近年は、すぐ近隣の千早エリアやアイランドシティエリアで、旺盛な開発が進行。JR千早操車場跡地(千早)や人工島(アイランドシティ)といった、一から区画整理を含めた開発を進めるにあたっての制約が少ない両エリアに比べて、古くからの街並みを残す香椎の区画整理事業は、やや出遅れている感がある。

JR駅前ではいくつかのマンション開発が進む
JR駅前ではいくつかのマンション開発が進む

 しかしここにきて、まちの骨格といえる区画整理がほぼ完了。歩道部分などの仕上げと、換地処分や登記簿書き換えなどの手続き関係などを残すのみとなっている。JR駅前などの一部では、先行してマンション建設などの開発がすでに進んでいるものの、この区画整理事業の完了をスタートラインとして、そこから新たなまちが形成されていくことになる。香椎のまちは長い“サナギ”状態を経て、ようやく“羽化”しようとしている。

東区の交通の要衝、香椎の歴史

香椎潟と頓宮(1904年、香椎宮絵図より)
香椎潟と頓宮
(1904年、香椎宮絵図より)

 「香椎」の歴史は古く、仲哀天皇や神功皇后と縁の深い「香椎宮」がこの地に存在することで、8世紀初めの古事記や日本書紀を始めとする古史には、すでに「カシヒ」の記述が見られる。江戸時代に福岡藩の貝原益軒らによって編纂された「筑前国続風土記」によると、この地で急逝した仲哀天皇の棺を“椎”の木に掛けていたところ、異香が四方に“香った”ことが、“香椎”の名前の由来とされている。

 香椎宮の存在により古くからその名を知られる香椎だが、実は明治期のころまでは、現在の西鉄・貝塚線のあたりまで海岸線が湾入しており、集落としての規模はそれほど大きなものではなかった。江戸期には唐津街道が通ったことで、現在の香椎駅前にあたる海岸線に「濱男(はまお)町」という小宿駅が形成されたものの、1868(明治元)年当時の香椎地区の人口は43戸・368人というわずかなものだったとされている。

 1889年の町村制の施行にともない、当時の香椎村、浜男村、唐原村、下原村が合併して「糟屋郡香椎村」となり、さらに1943年には香椎村が町制施行して「香椎町」となった。この間、明治以降の海岸国道の新設や、国鉄・鹿児島本線や私鉄・博多湾鉄道(現在の香椎線)の開通によって、交通の要衝として発展を遂げていく。さらに、昭和の初めのころより西鉄電車線が開通したほか、新国道2号線(現在の国道3号)が新設されるとともに、海岸埋立地の拡張も進行。村および町役場が置かれたことと、交通結節点としての機能を高めていったことで、糟屋郡の中心地・香椎町として役場や2つの駅を中心に商店街が形成され、一躍隆盛を極めていった。

昔の香椎駅前通り(1965年4月、福岡市総合図書館資料より)
昔の香椎駅前通り
(1965年4月、福岡市総合図書館資料より)

 一方で、昭和の初期ごろには、浜男の片男佐の海岸に料亭「香椎花壇」が登場。温泉旅館も登場し、“博多の奥座敷”として客を集めた時期もあった。同温泉旅館は「五・一五事件」の事前の密議を行う際に使われたという逸話もある。また、戦前までは香椎の山々は松茸の産地としても有名で、秋のシーズンには博多のまちから多くの“松茸狩り”の客が訪れたという。宅地開発が進んだ今となっては想像もつかないが、松茸は現在のJR香椎駅の東側の山にも多く生えていたとされる。

 

1953年当時の香椎町の地図(1953年発刊、香椎町誌より)
1953年当時の香椎町の地図
(1953年発刊、香椎町誌より)

 戦後の50年ごろには石炭ブームの波に乗って、香椎でも数カ所で小規模な採炭が行われた。だが、その鉱害によって、浜男を中心に500戸余りが渇水異変に見舞われるという事態が発生したこともある。

 50年代以降は、駅周辺には「香椎東映」「香椎セントラル」という2軒の映画館が登場し、浜男中心街の駅前通りは“香椎銀座”と称されるほど、活況を呈していった。一方で、周辺に香椎高校や福岡女子大学、九州産業大学などが開校していったことで、香椎のまちは学生街としての性格も帯びていく。そのほか、松本清張の小説「点と線」にも、物語の舞台として香椎が登場したこともあった。

 

アピロスの開業でにぎわう香椎(1974年2月、福岡市総合図書館資料より)
アピロスの開業でにぎわう香椎
(1974年2月、福岡市総合図書館資料より)

 その後、55年2月には香椎町が福岡市へと編入され、さらに72年4月には福岡市が政令指定都市に昇格し、香椎は東区の一地区になった。73年12月に国道3号沿いで、ユニードにおけるショッピングセンター第1号店として「香椎アピロス」が開業。新たなにぎわいの拠点が生まれたこともあって、香椎は東区の主要なエリアの1つとしての存在感を高めていき、77年の福岡市の総合計画(第4次)において“東の副都心”に位置付けられた。80年10月には、福岡都市高速・香椎出入口が供用開始となっている。

 86年4月に、国道3号からJR香椎駅に向けて一直線に伸びる「セピア通り」の整備が完了し、アピロスから西鉄香椎駅、そしてJR香椎駅までの動線が整備された。これにより、セピア通りを中心として、「キラキラ通り」や「みゆき通り」などの接続する商店街でも人の往来が活発化。

年代ごとの陸地の変遷
年代ごとの陸地の変遷
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 また、JR香椎駅と西鉄香椎駅との直線距離が約200m程度と近いことで、JR線から西鉄線への乗り換えのためにセピア通りを通って香椎の街中を移動する人も少なくなく、コンパクトな範囲にさまざまな機能を内包した香椎のまちは、歩行者にとっては適度な距離感で利便性を享受できることで、人の往来や集積が進んでいった。

 しかし一方で、古くからの町割そのままに街中の整備を進めてきたため、道路幅が狭隘なうえ、西鉄の踏切が横切ることもあって慢性的に渋滞が発生。自動車交通にとっては、不便な状態が続いていた。

(つづく)
【坂田 憲治】

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