2024年04月20日( 土 )

居住ゾーンを第一交通グループが開発~旧門司競輪場跡地・再開発プロジェクト(後)

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 余談だが、日清戦争後に国が軍備増強と産業資材用鉄鋼生産の増大を図るために官営製鐵所を建設しようとした際、「広大な建設用地が安く手に入る」「海上と陸上の交通の便が良い」「原料と燃料が手に入りやすい」という3つの条件を満たす建設候補地として、「八幡」「板櫃」(現・小倉北区)、「呉」(広島県)と並んで、「大里」も選ばれていた。しかも、一時は洞海湾の水深が浅く大型船の航行が困難な八幡に比べて、海陸の交通条件に優れ、より多くの人口を抱えていた大里が製鐵所建設地の第一候補となっていたこともある。
 その後、洞海湾の水深の問題が解決したことに加え、大里の約半額という地価の安さから、製鐵所建設地は八幡に決定。「官営大里製鐵所」の誕生は幻に終わった。

 明治から大正にかけては外国貿易の要衝としてにぎわい、瀟洒な洋風建築が建ち並んでいた門司港周辺だったが、日清戦争以降は前線基地としての役割も担うように。門司港からは、多くの将兵や弾薬などの軍需物資、食糧、軍馬などが運ばれていった。一方で、それまでは関門連絡船を使用して関門海峡の横断を行っていたのだが、乗換・積替の手間を省いて輸送力を増強するため、関門海峡にトンネルを建設する計画がもち上がるようになった。

 1936年9月の着工から約6年の歳月をかけて、42年7月に鉄道用の水底トンネル「関門トンネル」が開通(下り線。上り線は44年8月に開通)。また、この関門トンネル開通計画にともなって、42年4月に門司駅が門司港駅に、大里駅が門司駅と改称されている。この関門トンネルの開通によって、門司駅を中心とした大里地域は九州の“陸の玄関口”として発展。駅前には、商店街や市場などが形成されていった。
 一方で、41年12月に太平洋戦争が勃発。大陸に近く、軍需物資などの輸送拠点でもあった門司周辺は、アメリカ空軍からの空襲をたびたび受けるようになった。とくに終戦前の45年6月には大規模な空襲によって、約1万8,000人が死傷するという甚大な被害が発生。約3,770戸の家屋も破壊・焼失し、門司の市街地は焼野原と化した。

 終戦後、引き揚げ拠点の1つとなった門司港には、大陸や朝鮮半島からの引揚船が多数到着。多くの人でにぎわうことで、焼野原となっていた市街地の復興が進んでいった。また、50年6月に勃発した朝鮮戦争では、門司港が再び物資輸送拠点となったことで、まちは“朝鮮特需”に沸くことになる。一方で同年5月、門司市が主催する競輪場として開設されたのが、「門司競輪場」だった。

50年超愛された門司競輪場の歴史

 門司競輪場は、競輪発祥の地といわれる「小倉競輪場」(48年11月開設)、「福岡競輪場」(50年4月開設、62年10月廃止。現・貝塚公園)に次いで、福岡県内では3番目の競輪場として開設されたもの。バンク(競争路)周長は500mで、やや高台にあることから、眼下に関門海峡を望む風光明媚な競輪場だった。
 当時は、女性選手によるレースも行われるほか、毎年2月には記念競輪が開催。復興が進む門司・大里地域における新たな娯楽施設の誕生とあって、門司競輪場は大いに繁盛し、戦後の門司の活性化に一役買っていた。だが、その栄華もそう長くは続かなかった。

 63年2月に門司・小倉・戸畑・八幡・若松の5市が合併して北九州市が誕生。すると、直線距離にして約5.6kmという近距離にあるうえ、周辺のまちの規模や人口などの面で優位にある小倉競馬場との競合が激化していった。
 一方で、戦後に貿易相手国がアメリカ主体となったことによって、太平洋側ではない門司港の国際貿易港としての地位低下や、関門橋(73年11月開通)や新関門トンネル(75年3月)などが相次いで開通し、交通結節点から単なる“通過点”となったことで、門司エリアは北九州市内でも経済成長から取り残されてしまった。これが門司競輪場の苦境に拍車をかけ、赤字が慢性化。一時は北九州市内の競輪場を小倉に一本化するとともに、門司競輪場を廃止する案が検討されていた。

 その後、バブル好景気による影響で売上が好転したことで、廃止案は一時中断となった。しかし、その一時的な好況もバブル崩壊とともに過ぎ去り、再度の経営悪化に陥ったことで、小倉競輪場との一本化案が再浮上。2001年には門司競輪場での競輪開催の廃止が決定され、翌02年3月末をもって、52年にわたる歴史に幕を下ろした。

 閉場後もしばらくの間は、旧競輪場の施設はそのまま残され、走路内の陸上トラックが「北九州市立門司陸上競技場」として活用されるほか、走路が自転車競技の練習用バンクとして利用されていた。だが、北九州市は市内の公共施設が集中的に更新時期を迎えることを背景に、16年2月に「北九州市公共施設マネジメント実行計画」を策定。門司・大里の競輪場跡地一帯でも、冒頭の「モデルプロジェクト再配置計画(大里地域)」として、旧門司競輪場の跡地に公共施設を集約・再整備する計画を進めている。なお、このプロジェクトの進行にともない、旧競輪場施設は現在すでに解体・撤去されている。

公共施設を再配置エリア再活性化なるか

 北九州市が進める「北九州市公共施設マネジメント実行計画」は、市民の財産である公共施設を再構築するなかで、将来における財政負担を軽減するとともに、将来ニーズを見据えて時代に適合したものとするための取り組み。
 そのために掲げられている基本方針は

(1)「施設の集約と利用の効率化」
(2)「民間施設・ノウハウの活用」
(3)「市民センターを中心とした地域コミュニティの充実」
(4)「特定目的施設や利用形態の見直し」
(5)「施設の長寿命化と年度毎費用の平準化」
(6)「利用料金の見直し」
(7)「まちづくりの視点からの資産の有効活用」
(8)「外郭団体への譲渡を検討」

 ――の8つとなっている。そのなかで、門司区の「門司港地域」と「大里地域」の2カ所については、市内でもとくに老朽化が進んでいる公共施設が集中していることから、基本方針や施設分野別実行計画などに基づく公共施設の再配置が、モデルプロジェクトとして進められている。

 「モデルプロジェクト再配置計画(大里地域)」は、旧門司競輪場跡地(約4.8ha)を「スポーツ施設ゾーン」「公園広場ゾーン」「居住ゾーン」と位置付け、隣接する既存の大里公園や門司球場とともに、一体的な再整備を図っていくもの。居住ゾーン(約1.35ha)の開発概要については冒頭で紹介した通りだが、スポーツ施設ゾーンでは体育館や柔剣道場、屋内プールなどの機能を備えた延床面積約7,100m2の複合公共施設を整備。また、公園広場ゾーンは競輪場跡地南側に隣接する既存の大里公園を拡張・リニューアルし、芝生広場や遊具広場、健康遊具広場、駐車場などを備えた、より魅力的な公園へと再整備していく。
 既存施設のうち、門司球場やバスケットコートなどは引き続き活用するが、球場南側の大里プールは複合公共施設に集約されるため、その跡地を多目的広場として再整備する。

 今後のスケジュールは、公園広場ゾーンの整備完了は24年3月をメドにしているが、スポーツ施設ゾーンについては既存施設の更新時期がきてから集約・再整備を進める方針で、整備の完了時期については現在のところ未定となっている。

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 JR門司駅周辺を除けば、北九州市全体のなかでもとくに人口減少率が大きい門司・大里地域だが、市が進める再開発プロジェクトによって、往時のにぎわいを取り戻すことができるのか――。まずは、先行して進められる居住ゾーンの開発において、事業予定者である第一交通グループの経験・ノウハウを活用した、魅力あるまちづくりの進行を期待したい。

(了)

【坂田 憲治】

(前)

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