2024年05月06日( 月 )

この世界、どうなる?(10)日本への提言

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広嗣まさし(作家)

 10回にわたり、「この世界、どうなる?」というタイトルで、現代世界について書いてきた。すべてを前回までで書ききったと考えていたが、今回はこれまで触れてこなかった、「日本への提言」をあえて行いたい。

 いま日本は、何をすべきか。日本が国際社会の一員であるということは「一国として、国際社会に主体性をもって臨む」ということだ。いったい日本に、このような主体性はあるのだろうか。

 戦前の日本は「国体の護持」を掲げ、まるで主体性があるかのように見えた。しかし、その内実を世界に知らしめ、説得力あるかたちで示せたかというと、自己暗示にすぎず、他国に影響を与えるものではとうていなかった。今の中国が「中国は、世界で唯一古代からの文明を守ってきた国だ」といっても、誰も耳を貸さないのと同じだ。

 国際社会の場で主体性をもつとは、自らの価値観を基に「これは是とするが、あれは非とする」と、はっきりいえることだ。今の日本は、表向きは自由を尊重する民主国家だが、アメリカの支配下に置かれているからそういっているだけで、本音は異なるのではと疑われる。明治の初期は、1つの案件について各新聞が異なる意見を表明していたが、今のテレビは、どのチャンネルを見ても意見は大同小異だ。独裁国家でないにも関わらず、さまざまな意見が表明されていないとなると、よほど自己規制が強いのだろう。

 とはいっても、中国が香港に押しつけた新法について、「遺憾である」と日本政府が述べたことについて「アメリカに同調した結果だ」と言い切るわけにはいかない。議会で過半数を占める与党の自民党は、香港の現状を見るにつけ、習近平氏を国賓として招くことに断固反対すると表明した。これは明らかに、主体的判断といえる。

 問題はむしろ、与党が主体的判断をした時も、「政敵だから」という理由で、他の政党が賛意を示さないことだ。集団原理に基づいて、国としての主体性を守ることなど各政党はまったく考えていない。各政党にとっては、日本という国よりも自分たちの党のほうが大事なのだ。民主主義は、個人の主体性があってこそ成り立つ仕組みであるにも関わらず。

 もっとも、自民党内にも、これまでの中国との関係を無視すべきではなく、「国賓として招く」と言ったことは守るべきだという、一見すると殊勝な意見もある。この論理は、相手が日本に対して敬意を払っている場合には妥当性があるが、そうでない場合にはまったく成り立たない。この論理の裏にあるのは、中国に対する恐怖だ。このような判断では、主体性もなくなってしまう。

 主体性を守ることは、自尊心を育てることである。自尊心とは、自分自身を尊敬するということだ。主体性のない人は自分を尊敬しないが、そうなると誰からも尊敬されない。

 ところで、中国がなりふりかまわず暴挙に出ていることは、日本にとっては好機到来でもある。戦後、平和が続いたため日米安保体制にあぐらをかき、自らの価値観を意識できるチャンスがこれまでほとんどなく、それを吟味してこなかった日本。いまこそ、己の存在を確認する時だ。

 自尊心を正しく育てるには、徹底した自己批判が必要だということも伝えておきたい。自己批判を怠って慢心してしまうと、とんでもない独善に陥る。「やはり、日本はすごい」「世界が日本をすばらしいと褒めてくれる」という言葉がはびこっているが、これでは自尊心は育たない。自信のない子どもが、大人のほめ言葉を当てにしているようなものではないか。

 他人に指摘されるまでもなく、自信の弱点を知っている者にしか本物の自尊心は育まれない。その点では日本人はまだまだ未熟だから、心底からの自信をもつことができない。

 プロスポーツの選手には、「自分はすごいぞ、自分は一番だ」などと感じている者は1人もいない。自分を鼓舞するために誉め言葉を口走ることはあっても、自分の弱点は何なのかを分析し、少しでも弱点を乗り越えようと努力している。彼らプロスポーツ選手の姿勢から学べばよい。「日本人はこの点は優れているが、この点が弱い」と、はっきりいえる日本人が1人でも多く必要だ。いま私たちがなすべきことは、自分を見据えて分析し、確固たる自信を養うことだ。

(了)

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