2024年03月29日( 金 )

継承されるエリア特性 交通の要衝「筑紫国」

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 国生み神話では、4番目に生まれたといわれる筑紫島(つくしのしま)。現代でも、「ちくし」もしくは「つくし」と2つの名称で呼ばれている。九州全体を指す説や九州北部を指す説など、不明な点も多い筑紫国(つくしのくに)――その歴史の一片をのぞいてみよう。

筑紫国の成り立ち

 「古事記」に記述のある国生み神話では、イザナギとイザナミが隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(現在の九州)を生んだとされている。筑紫島は4つの面から成り、そのなかの1つに「白日別(シラヒワケ)」(※)と呼ばれているものがある。これが、筑紫(ちくし)の国の始まりである。日本書紀では「筑紫」「竹斯」「竹紫」、万葉集では「豆久紫」と表記されている。

※筑紫国に関する記載「次生、筑紫島、此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。」(出典:古事記)

 筑紫の名前の由来については諸説あり、奈良時代の「筑後国風土記」では、(1)筑紫野市原田にある式内社“筑紫神社”に象徴される地名に基づく説、(2)都から見て“道の尽くる所”の意味で筑紫と名付けられた説、(3)筑前・肥前の二国の境に険しい坂があり、坂の上に荒ぶる神がいて通行人の命を奪う=“命尽くし”を筑紫君・肥君の祭祀で治めたことに由来する説、(4)多数の死者の弔いのためお棺をつくったところ山の木々がなくなったという“木尽くし”に由来する説―という4つの説が記載されている。このほかに、国のかたちが「木兎(つく)」に似ているからという説や、太宰府まで石畳の道を築(つ)くったことから「築石(つくいし)」となったという説もある。

 1つのエリアを指しているようにも思える「筑紫」の名称だが、九州を「筑紫島」(古事記)または「筑紫州」(日本書紀)というように、広義の意味で九州全体を指すこともある。五畿七道(古代日本における、広域地方行政区画)の1つ、西海道(後の九州)は、大きく筑紫(つくし)、豊(とよ)、火(ひ/肥とも)、日向(ひむか、または熊襲国《くまそ》)の四国に分かれていたが、7世紀、律令制の成立とともに前後に分割され、筑紫国は筑前(福岡県北部)と筑後(福岡県南部)に、豊国は豊前(福岡県東部から大分県北部)と豊後(大分県)に、火国は肥前(佐賀県北部)と肥後(熊本県)に、日向国は日向(宮崎県と鹿児島県の一部)、大隅(鹿児島県東部ほか)、薩摩(鹿児島県西部)の九国(九州)となった。当時の都である奈良に近いほうが「前」が付く国名となっており、朝廷の威光を感じさせるエピソードである。

 余談だが、筑紫国といえば「筑紫磐井の乱」がよく語られる。527年、近江毛野率いるヤマト王権の仁那(朝鮮半島南部)への進軍を、筑紫の有力者であった筑紫君磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)が阻んで徹底交戦。翌528年に物部麁鹿火によって鎮圧された、筑紫側の反乱といわれている。敗走した磐井軍のその後に関して、日本書紀によると磐井は物部麁鹿火から斬られたとされているが、豊前へ逃亡中に山のなかで死去したという説もある。その磐井の墓が、福岡県八女市にある岩戸山古墳ともいわれている。

 663年には「白村江の戦」が勃発。唐・新羅連合軍の前に窮する百済の救援に向かった日本軍は、海戦で大敗。唐・新羅連合軍が攻めてきたときの防衛施設として、664年に水城を築造し、対馬などに防人を配置。外敵の襲来などの異変を知らせるために、火を燃やし、煙を立てる施設「燧(とぶひ)」の設置も進めた。665年には朝鮮式山城である大野城(大野城市)、基肄城(佐賀県基山町)を築き、大宰府の防衛を図った。山全体の地形を生かし、約4kmにわたって城壁をつくるという壮大なものであり、前述の筑紫磐井の乱しかり、筑紫国の影響力の大きさを物語っている。

古代から続く交流拠点

大宰府政庁跡地
大宰府政庁跡地

 動乱が続いた九州諸国だが、統括拠点として筑前国筑紫郡(現在の太宰府市)に大宰府政庁が設置されたことで、周辺エリアは交流拠点として栄えていく。とくに大宰府は大陸との交通の要衝とされ、多くの人や文物を受け入れる外交窓口として重要視されたほか、軍事面では司令部の役割も担当していた。

 また、奈良の都を模した都市整備がなされ、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた。大宰府政庁を中心に、寺院や公的施設が建設され、政庁前面から南へ中央大路(平城京でいうところの朱雀大路)が伸び、その左右に東西・南北の道路を配置させることにより、碁盤の目状に区画整理が行われていった。なお、政庁正面南側が、現在の筑紫野市二日市にあたる。

 筑紫野市域は江戸期には、九州最大の幹道といわれる長崎街道や日田街道、薩摩街道の3本が通っており、これらの街道には山家宿、原田宿、二日市宿の3つの宿駅が置かれていた。1つの自治体に3本の街道が通り、3つの宿駅が置かれるのは非常に珍しく、このことからも“筑紫”が大陸や中央から訪れた者にとっての九州中心部の入り口であり、交流拠点であったことがうかがえる。

 明治維新以降は、筑紫野市域の交通の要衝としての存在感はさらに増していく。なかでも鉄道網の敷設は、人々の生活環境を大きく変えた。1889(明治22)年12月、私設鉄道の九州鉄道会社が開業。博多~久留米間において、最初に二日市、次に原田という2つの停留場が設けられた。停留場はそれぞれ筑紫野市内の宿場近接地に設置。奈良から江戸、明治と時代を超えて、筑紫野市は交通の要衝として、文化、経済の結束点で在り続けた。

 そして現在、シンガポールの不動産業者・メープルツリーが、九州自動車道・筑紫野IC近くで、5億5,000万シンガポールドル(20年12月11日時点の為替レートで約428億円)を投じて物流施設を計画している。メープルツリーはこれまで日本国内で、神戸市や千葉市などで物流施設を建設しており、九州には今回が初進出。計画は、総面積11万6,319m2の土地に2棟の物流倉庫を建設するもので、延床面積は23万1,648m2と九州最大規模となる。1棟目は23年、2棟目は24年春を竣工予定としている。

 筑紫国の交通の要衝としての役割が、時を超えて古代から現代まで、連綿と受け継がれていることがわかるだろう。

【内山 義之】

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