2024年04月19日( 金 )

【八ッ場ダムを考える】八ッ場ダムと川辺川ダムは何が違ったのか?(後)

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八ッ場ダムが洪水防いだ?

※いずれも国交省資料を基に作成
※いずれも国交省資料を基に作成

 八ッ場ダムは20年4月に運用開始した一方、川辺川ダムは本体工事がストップしたまま現在に至っている。腑に落ちないのは、ダムによらない治水といってダムを白紙撤回したのに、12年経っても具体的にほとんど進んでいない点だ。

 ダムなどによる治水効果は、一般の人々にはわかりづらいものがある。というより、基本的にはわからない。ひとたび水害発生となれば、メディアも取り上げるし、人々の関心も集まるが、何も被害が出ていないのに「これは実はダムのおかげだったんです」といったところで、よほど意識の高い住民でない限り、ダムの効果を理解することは稀だろう。被害がないことは普通の日常だからだ。しかし、八ッ場ダムではその稀なことが起きた。

 19年10月12日ごろ、関東地方を台風19号が直撃し、当時試験湛水中だった八ッ場ダム周辺に時間最大37mmの大雨をもたらした。この大雨により、八ッ場ダムには最大約2,500m3/sの水が流れ込み、総貯留量は約7,500万m3に到達。水位は約54m上昇した。国土交通省によれば、八ッ場ダムを含む利根川上流7ダムを合わせ、約1億4,500m3を貯留。下流の八斗島地点(群馬県伊勢崎市)で約1mの水位低下効果があったとしている。

 この発表で、「八ッ場ダムのおかげで洪水を防げた」という声が広がり、メディアも取り上げた。ダムの治水効果は少なかったとする反対意見も出たが、ダムの治水効果にこれだけ注目が集まったのは、近年珍しいことだった。

 しかし、八ッ場ダム単体の治水効果を示す検証データは確認できていないのも事実だ。そうである以上、「八ッ場ダムによって洪水が防げた」とはいえない。ただ、7,500万m3もの水を貯留しておきながら、下流域への影響がなかったとは考えにくい。「八ッ場ダムによって洪水が防げた」とすると過大評価のリスクがあるが、八ッ場ダムのおかげで利根川上流域の貯留能力が倍増したことにより、下流域の流量が抑制された結果、被害をまぬがれたとはいえるだろう。ダムのおかげであろうとなかろうと、結果的に流域で被害が出なかったこと、そちらのほうがよほどクリティカルなことだ。球磨川流域ではこのクリティカルな事象が発生した。

「川辺川ダムがあれば」

 20年7月3日ごろ、線状降水帯の形成にともない、川辺川を含む球磨川流域では時間約30mmを超える大雨が連続的に発生。下流域の人吉市、球磨村などで川辺川の水が氾濫し、65名の死者を出す被害が出た。球磨川水害は、連日全国ニュースでも取り上げられ、国民的な関心を集めた。そこで上がった声の多くは「川辺川ダムをつくっていれば、水害を防げたんじゃないか」というものだった。ここでも、ダムがあっても治水効果は限定的だったとする反対意見もあった。ダムを肯定しようが否定しようが、まともな治水対策が打たれなかった結果、実際に被害が出たことは、動かしようのない事実として、今も重くのしかかっている。

 国土交通省や流域自治体は、この水害に関する検証委員会を設置。仮に川辺川ダムが存在した場合、約8,400万m3を貯留することで、球磨川の流量を約2,600m3/s分(人吉地点)低減、水位にして2m程度低下できたと試算。被害ゼロではないものの、浸水範囲、浸水深などは減少したと推定。ダムによらない対策と比べて、ダムが最も有効な治水対策だとしたうえで、川辺川ダムがあった場合、「洪水の大部分は防げた」と結論づけた。

 川辺川ダムをストップさせて、12年以上にわたりダム以外の治水対策を追求してきたところで、実際に水害が発生してしまった。その挙げ句、ダムによらない治水だけではダメで、やっぱりダムが必要だったことが明らかになってしまったわけだ。その後、一見反省したかに見える熊本県知事は、流水型ダムの建設を国交相に要望。現在、流水型ダムを軸にした球磨川流域の治水対策の議論が加速している。水害発災後の川辺川ダムをめぐる一連の論争は、過去の判断の誤りを示唆するものとして、また、実際に被害が出てからでないと、まともな治水対策に取りかかれなかったという愚かさを示す事例として、八ッ場ダムを超える国民的関心を集めた。

2つのダムの違い

 八ッ場ダムは運用を開始したのに、川辺川ダムはなぜ遅々として進まなかったのか。それを明らかにしたいということから、両ダムを比較してみたわけだが、何もかもが違っていたというのが、今の正直な感想だ。一番の違いは、地元知事だと指摘したところだが、もっと本質的、必然的な原因が違いとしてあったという感じが拭えないでいる。それはたとえば、「民意」や「空気」という得体の知れないかたちで現れるものだ。ただ、その正体が何だったのかについては、また別の角度からの考察が必要だ。

(了)

【大石 恭正】

(前)

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