2024年03月29日( 金 )

リッツ・カールトン開業でどう変わる?雑多さ魅力・若者のまち「福岡・大名」(前)

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万が一の防衛の要、武家屋敷街・大名

 江戸期の大名は、福岡城の内堀に面する東西約1.2kmにおよぶ長い町であり、ここに福岡藩に仕える家老や中老、大組(おおぐみ)などの重臣らが住み、700~3,000石ほどの大身(たいしん/石高が高い旗本を指す)の武士らの屋敷が立ち並んでいたとされている。このうち大組にあたる家臣のことを江戸初期には「大名」と呼んでいたことで、これが現在に至る町名「大名」の由来となったとされている。

 福岡藩の初代藩主・黒田長政公は、福岡城の城下町にあたる大名を防衛の要と位置付け、万が一に備えて、侵入した敵が攻めにくいように、あるいは敵が撃った鉄砲の弾を防ぎやすいように、通りをカギ型やT字型につくったとされる。これが、不自然な直線カーブや細い路地が多く、並行する通りとの行き来がしにくいという、現在の大名エリアのまちの特徴として残っている。ちなみに、当時の福岡城は周囲を幅約50mの内堀で囲まれるほか、城の西側には巨大な「大濠」が、城の東側には内堀の外に、現在の大名エリアを東西に横断するかたちで「紺屋町堀(中堀)」と「肥前堀(佐賀堀)」というこちらも幅約50mの堀が那珂川まで続いていた。福岡城はいわば水路に囲まれた鉄壁の城であり、当時福岡城を訪れた築城の名手として知られる肥後熊本藩主・加藤清正公をして、「我が城(熊本城)は3日か4日で落ちるが、この福岡城は30日、40日は落ちないだろう」といって感嘆したという逸話も残っている。

不自然な直線カーブが多い通りは、江戸期の城下町の名残
不自然な直線カーブが多い通りは、江戸期の城下町の名残

 当時の大名エリアは、先の紺屋町堀と肥前堀により分断されており、堀の北側が大名屋敷街、堀の南側が中級武士や町人が混在するまちとなっていたようだ。なお、今でこそ全体を指して「大名」という呼び方をしているが、江戸期にはもっと細かく区分されており、とくに堀の南側エリアには、染物屋が集積していた「紺屋町」や鉄砲を扱う足軽が集中して居住していた「鉄砲町」、内科医の集まっていた「雁林町」(藩内科医の鶴原雁林にちなむ)、ほかに「小姓町」「薬院町」など、各種職掌に応じた町名が付けられていたようだ。余談だが、紺屋町では良水が湧出するとされ、江戸期には染物屋のほかに醸造業も集まっていたようで、1855(安政2)年には「ジョーキュウ(上久)醤油」(創業当時は楠屋醤油)が創業。同店は現在も福岡の老舗の醤油屋として、大名のまちで存在感を放っている。

江戸期創業の「ジョーキュウ(上久)醤油」
江戸期創業の「ジョーキュウ(上久)醤油」

 一方、堀の北側に広がっていた大名屋敷街では、現在の明治通りあたりを境に、通りの北側に10軒(竹中、矢野、斎藤、小川、赤石、飯田、田代、黒田、野村、斉藤)、南側に8軒(隈田、大野、立花、立花、山口、田中、河村、間島)の大名屋敷が立ち並んでいたほか、福岡藩の藩校として修猷館(東学問稽古所/1784年2月開館)が置かれていたとされる。なお、北側10軒のうちの斎藤邸は後に火事で焼失し、跡地には郡役所が建てられた。また、藩校であった修猷館は、明治期に入ると廃藩置県にともなう藩学問所の廃止によって一時は閉鎖。しかし、福岡の旧藩士の尽力によって廃止から14年後に再興され、その後に西新へ移転して、今では福岡の公立高校「御三家」の筆頭・修猷館高校として君臨している。

 なお、福岡中央銀行本店から道を挟んで隣接する「プレミスト天神赤坂タワー」の前には、「飯田屋敷の大銀杏」と呼ばれる大きなイチョウの木がある。かつての大名屋敷街の名残を今に伝える唯一の場所だ。

飯田屋敷の大銀杏
飯田屋敷の大銀杏

【坂田 憲治】

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