2024年04月26日( 金 )

「政商」SBI北尾吉孝CEOの野望~金融庁OBを迎え入れ、大願成就に王手(3)

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 新生銀行が白旗を掲げた。買収防衛策を取り下げ、SBIホールディングス(HD)傘下に入ることを決定したのだ。SBIHDによる新生銀の株式公開買い付け(TOB)が成立すれば、北尾吉孝社長CEOが掲げる「第4のメガバンク構想」実現に向けて大きく前進する。北尾氏の銀行買収の狙いは何か。竹中平蔵・元金融相、五味廣文・元金融庁長官、そして金融庁という3つのキーワードのもとに説明していく。

五味氏は旧長銀に引導を渡した当事者

国会 イメージ   北尾氏流の「政官界接近術」の代表格は元金融庁長官の五味廣文氏だ。五味氏は98年10月、財金分離されたばかりの金融監督庁(現・金融庁)の検査部長として、新生銀の前身にあたる日本長期信用銀行の国有化に関する実務を取り仕切った。つまり、旧長銀に引導を渡した当事者だ。

 その後、証券取引等監視委員会事務局長、検査局長、監督局長を歴任、(株)りそな銀行の実質国有化に辣腕を振るった。その実績が評価され、小泉政権下で、第4代金融庁長官(04~07年)に就任した。

 17年、SBIHDに天下り。19年まで、社外取締役を務めた。現在は退任し、アドバイザリーボードのメンバー。SBIは出資先の(株)福島銀行の社外取締役に五味氏を派遣し、銀行再生の一役買う役割を任せていた。

 そして、今回、北尾氏は五味氏を新生銀の会長に送り込む。旧長銀を破綻処理した当事者が、新生銀の公的資金返済の役割を担うことになる。

竹中平蔵氏は小泉内閣の顔だった

 もう1人のキーマンが、竹中平蔵氏。慶應義塾大学総合政策学部教授から、2001年に小泉純一郎内閣の経済財政担当相として初入閣。歴代3位の長さを誇る小泉内閣の顔といえるのが竹中氏だ。小泉氏が一貫して閣僚として使い続けたのは、竹中氏ただ1人。金融担当相、郵政民営化担当相、総務相などを歴任した。

 04年参議院議員に当選。06年9月、小泉務内閣の終焉とともに参院議員を辞職。政界を引退し、人材派遣会社の(株)パソナグループに天下り。現在は、パソナグループの取締役会長だ。第2次安倍晋三内閣、菅義偉内閣でブレーン的役割を担った。人材派遣業界に利益誘導し、「政商」と酷評された。

 SBIHDの社外取締役には16年6月に就任。「政商」の竹中氏が、「政商」の北尾氏を指南する構図だ。

 北尾氏のブレーンである竹中氏と五味氏のコンビは、とてつもない負の遺産をのこした。「日本振興銀行事件」だ。

竹中プランを立案した木村剛氏

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 2002年9月30日、小泉改造内閣の閣僚名簿の発表をテレビで見ていた柳沢伯夫・前金融相は「金融担当相、竹中平蔵」とのアナウンスに「これは仰天人事だ」と叫んだという。「これ以上の公的資金の必要はない」と言い続けた柳沢氏が更迭され、柳沢氏と鋭く対立し、不良債権処理の加速を主張してきた竹中氏が金融相に任命されたのだから、金融界にとって、まさに仰天人事だった。

 金融相に就任した竹中氏は同年10月、「金融再生プログラム 主要行の不良債権問題解決を通じた経済再生」を発表した。いわゆる竹中プランである。このとき、プログラムづくりで中心的役割をはたしたのが木村剛氏である。

 木村氏は日本銀行でエリートコースを歩いた。BIS規制(国際業務を営む銀行は自己資本比率8%以上を定めた規制)の交渉に当たったが、日本の国際金融戦略があまりに貧困なのに絶望して退職。金融コンサルタント会社を設立した。金融監督庁(現・金融庁)の顧問として「金融検査マニュアル」を作成する際、主導的役割をはたした。

 木村氏は一貫して、貸倒引当金を厳密に積む不良債権処理策を主張。大手銀行の巨額な不良債権が金融システムを歪ませていることを問題にした。

 竹中プランは、木村剛氏の理論に基づき、実行された。大手行に不良債権処理を迫り、追い込んでいった。2003年5月、りそな銀行に2兆円規模の公的資金を注入。「特別支援行」第1号として、一時、国有化した。

 また、不良債権処理の受け皿として、(株)産業再生機構をつくり、大手スーパーの(株)ダイエー、大手マンションの(株)大京、ハウスメーカーのミサワホーム(株)を産業再生機構に持ち込んだ。上記は小泉政権下、金融相の竹中平蔵氏、金融庁長官の五味廣文氏、ブレーンの木村剛氏の連携プレーとして実行された。

(つづく)

【森村 和男】

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