2024年04月19日( 金 )

和洋混在の炭鉱王の邸宅「旧安川邸」、隣接の旧松本家住宅とのシナジー図れるか?

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安川家当主の大邸宅

本館棟
本館棟

 北九州市戸畑区の夜宮公園の一角にある「旧安川邸」は、炭鉱経営で財を成した「筑豊御三家」の炭鉱王の1人であり、(株)安川電機や九州工業大学を設立し、工業都市・北九州市の基礎を築いた企業家である安川敬一郎氏(1849~1934年)が住んでいた邸宅。旧・戸畑市中原(現在の戸畑区一枝・仙水町)の開発と並行して1912(明治45)年に建設された後、増築を経ながら3代にわたって安川家当主および一族が居住したとされる。約1万3,000m2の敷地内に建てられた本館棟(延床面積約210m2)、大座敷棟(延床面積約300m2)、洋館(延床面積約330m2)、2棟の蔵(延床面積約200m2)で構成され、その周囲に庭園等が整備されている。

 このうち大座敷棟は、もともと若松にあった安川氏の居宅を1912年に移築したもの。若松時代には、八幡製鐵所誘致の初会合が行われた場所ともされている。大座敷棟の中心となる大座敷は、床の間、書院、天袋などを配する15畳の大座敷と、10畳の次の間の2部屋で構成。両間ともに床板には表面を平滑に仕上げた上質な「拭板(ぬぐいいた)が張られており、襖や畳を取り去ると、能や狂言の舞台に転用できる造りとなっている。また、大座敷の床の間には、中国の革命家・孫文による「世界平和」の扁額が飾られているが、これは孫文が旧安川邸を訪れた際に揮毫し、贈呈したものとされている。

 27年竣工の洋館は、正面から見るとアールデコ調の造りだが、裏側に回ると1階部分に入母屋風の屋根を備えた座敷があり、和洋が混在したユニークな造りの建物だ。ここは、敬一郎氏が晩年を過ごした居宅とされている。なお、北九州市では当初、建物老朽化などを理由に洋館を解体する計画だったが、市民や有識者からの「建築史的価値は高い」との声を受けて、2018年4月に解体方針を撤回するに至っている。

鐵の記憶広場
鐵の記憶広場

 37年竣工の本館棟は敬一郎氏の孫・寛氏が建てたもので、モルタルの外壁に瓦葺きの屋根を備え、洋館とは趣が異なるものの、こちらも和洋混在の造りとなっている。終戦後、52年まで米軍に接収され、その後は長らく使われないまま、76年に大部分が解体。現在は、玄関や応接室、書生室などの一部が残されている。また、建物西側には、「鐵の記憶広場」を整備。製鉄に関連する多様な素材を配し、解体されてしまった間取りをなぞるかたちで空間の記憶が表現されている。

 そのほか、敷地西側に並んで建てられている北蔵と南蔵の2棟の蔵(12年竣工)は、外見は似通っているものの、構造はまったくの別物。北蔵はレンガ造なのに対し、南蔵はRC造となっており、外壁の設えも微妙に異なっている。また、敷地内北側に広がる大座敷前庭園は、35年当時の敷地配置図を参照して保全整備されたもの。庭園内には巨大な沓脱石(くつぬぎいし)や踏石など、安川家の財力をうかがわせるものも現存しているが、全般的に敬一郎氏の質実剛健な趣向が反映された野趣溢れる庭園となっている。

 このように旧安川邸は、和風および洋風の異なる建築様式を1つの敷地内に備え、北部九州における高級住宅史および日本の近代建築史上、極めて重要な住宅建築であることなどから、北九州市では18年8月に、旧安川邸の建物群と付属の外構や家具を市の有形文化財に指定している。

大座敷棟
大座敷棟

【坂田 憲治】

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