2024年05月12日( 日 )

丘陵の閑静な住宅地「福岡・小笹」(中)

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区画整理と団地造成で一気に開発・発展が進む

 小笹の開発が本格的に進んでいくのは、戦後になってからだ。なかでも、現在の小笹の原型をつくり上げたのは、福岡市が初めて実施した土地区画整理事業である「平尾地区土地区画整理事業」に依るところが大きい。

 53年7月に事業着手した同区画整理事業は、「平尾」という名前を冠しているものの、厳密には住所表記上の平尾ではなく、その南側に位置する平和(中央区/南区)から小笹にかけての施行面積162.7haにおいて行われたものだ。現在の筑肥新道から南側の小笹エリア(1~3丁目)は、この施行面積にすっぽりと入る。

 同区画整理事業では総事業費3億643万円(当時)をかけて、幅員8~11mの都市計画道路3本を築造し、これを基幹として地形に応じて区画街路を設置したほか、宅地の整地化にともない排水路を灌漑用水路と兼用するかたちで整理。土地利用で主なものとしては、旧陸軍射撃場跡地を小中学校・公園等の敷地として確保するほか、地区内に都市計画によって霊園墓地を造成し、さらには公共空地率の高い閑静な住宅地を形成。施行前は宅地3.00%、道路1.75%、河川水路0.44%、田畑12.53%、その他82.28%だった土地利用割合が、施行後には宅地29.34%、道路11.55%、河川水路0.62%、公園緑地2.97%、田畑5.60%、その他49.92%に変更されるなど、64年11月までの約11年間の事業期間で、小笹を含めた一帯の宅地化が急激に進行していった。これが現在に至るまでの、小笹の原型となっている。

 なお余談だが、福岡市は当初、小笹の丘陵一帯を引揚者のための農地として開発しようと計画していたとされる。だが、あいにく小笹の地質は粘土質の赤土で農業に適していなかったため、やむなく区画整理による宅地造成という選択となったようだ。

 この平尾地区土地区画整理事業と同時期にもう1つ、小笹の開発・発展に寄与する大きな動きがあった。それが「小笹団地」の開発だ。

 小笹団地は、高度経済成長期における福岡市都市部の住宅不足の解消を目的として、現在の福岡県住宅供給公社の前身となる福岡県住宅協会が開発・供給したもの。現在の小笹4丁目にあたる丘陵地を造成し、総面積11万280m2(北ブロック:6万4,080m2/南ブロック:4万6,200m2)において、第1次建設(56~59年度)と第2次建設(67年度、73年度)に分けて、総数54棟・978戸を開発。第1次建設では48棟・845戸(56年度:13棟・184戸、57年度:12棟・213戸、58年度:12棟・240戸、59年度:11棟・208戸)を、第2次建設では5棟・94戸(67年度:1棟・16戸、73年度:4棟・78戸)を段階的に開発していった。

 住棟構成は4階建の中層棟が大部分を占め、板状住棟のほかに2タイプのスターハウス(※)や螺旋階段型住棟などユニークな形状の建物も多数存在。当時としては最先端のデザイン・設備の建物に加えて、国鉄筑肥線・小笹駅の“駅チカ”で利便性が高かったこともあって、憧れの住まいとして大人気の物件だったようだ。

 こうして小笹では区画整理と小笹団地の造成という2つの大きな開発行為によって、小笹駅を中心として市街化が一気に加速。駅前では商店や市場などが集積して商店街を形成するなど、福岡市の都心部に最も近い住宅街の1つとして発展を遂げていった。

※スターハウス:集合住宅における住棟の形態の1つであるポイントハウス(塔状の形状を有する住棟の一形態)のうち、Y字型の平面形状を有するもの

(左)小笹団地
(右)かつての駅周辺には今も商業店舗が軒を連ねる

筑肥線の廃止そして現在へ─

 区画整理によって街の基盤が整えられたことに加え、国鉄筑肥線・小笹駅という交通拠点と、多くの住民を抱える小笹団地という大規模集合住宅の存在によって、小笹の発展は支えられてきた。とくに、福岡市の西部と中心部とを結ぶ筑肥線の存在は大きく、小笹に限らず鉄道沿線における都市化が進行。福岡市全体の発展にも寄与していった。その結果、72年4月には福岡市が政令指定都市となり、75年10月の国勢調査では初めて人口100万人を突破(100万2,201人)。福岡市は、当時九州1位だった北九州市に追いつけ・追い越せといわんばかりの勢いで、大都市化の道を歩んでいった。

 だが、そうした沿線の発展が、皮肉にも鉄道路線としての国鉄筑肥線の歴史に終止符を打つことにもつながった。

 筑肥線のとくに福岡市内を通る区間は利用者も多く、当時の国鉄基準では利用者の多い「幹線」と同程度の輸送密度だったとされる。そのため本来であれば、地方ローカル線のような不採算による廃止の検討がされるような状況ではなかった。だが、筑肥線の博多~姪浜間は、すべて地面に線路が敷かれている区間で、道路との交差部はすべて踏切となっており、高架橋や地下トンネルなどの立体交差は1つもなかったという。博多~姪浜間の踏切の数は実に43カ所あったといい、沿線の発展による人口増とモータリゼーションの進行によって自動車の交通量が増加すると、各地で踏切を起点とした渋滞が頻発。福岡市の都市交通上の大きな課題となっていた。

 そうしたなか、73年12月開催の市議会において、市が高速交通事業を行うことを議決。75年11月に、博多から天神を経由して姪浜に至る地下鉄(現・福岡市営地下鉄空港線)の工事を開始した。筑肥線の通るルートとは異なるものの、博多~姪浜間が“踏切を必要としない”地下鉄で結ばれることで、市はこれを事実上の筑肥線・博多~姪浜間の踏切解消策と位置付けた。77年には福岡市と国鉄との間で、筑肥線の博多~姪浜間の廃止に関する覚書に調印。こうして博多~姪浜間の筑肥線の廃止が決定した。

 もちろん沿線住民からは廃止に反対する声も挙がったものの、その対策として代替バスの運行開始のほか、将来的には線路跡地を道路整備して活用する方針が提示されたことで、何とか合意に漕ぎ着けた。こうして83年3月をもって、国鉄筑肥線の博多~姪浜駅間が廃止。小笹駅もその役割を終えた。

 その後、廃線となった筑肥線の筑前高宮駅(中央区那の川2丁目)から鳥飼駅(城南区鳥飼6丁目)までの区間の線路跡を利用するかたちで道路への拡幅整備を実施。89年の福岡市制施行100周年を記念した道路愛称事業により、「筑肥新道」と名付けられた。小笹駅も取り壊され、その跡地は整備されて小笹公園とパチンコ店(ラッキーランド小笹/2022年1月末に閉店。現在は「はま寿司 福岡小笹店」が出店)となった。

 こうして小笹は“駅チカ”という強力なアドバンテージを失いつつも、その後にできた筑肥新道を代替の交通インフラとして活用しながら、適度な利便性と丘陵に囲まれた豊かな自然環境を享受できる閑静な住宅地として、現在に至っている。

(左)筑肥新道 (右)小笹駅跡地につくられた小笹公園
(左)筑肥新道
(右)小笹駅跡地につくられた小笹公園

(つづく)

【坂田 憲治】

(前)
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