2024年05月13日( 月 )

住宅・商業・物流─インフラの結接点・筑紫野市(前)

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古代から、人・モノ行き交う地

 福岡平野と筑後平野の接点に位置する現在の筑紫野市の一帯は、古代から交通の要衝として多くの物や人が行き交い、発展を遂げてきた。旧石器時代の野黒坂遺跡や峠山遺跡などからは、当時の狩りで使用されていた石器が発見されており、古くから人々が狩猟生活を営みながら同地で暮らしていたことを示している。縄文時代や弥生時代における遺跡も市内でいくつか見つかっているほか、原口古墳や五郎山古墳などの古墳も複数確認されている。

 663(天智2)年の「白村江の戦い」の後、筑紫野市の周辺では外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として地方行政機関「大宰府」が置かれたほか、「水城(みずき)」や「大野城」「基肄城(きいじょう)」などの城も築かれた。大宰府は地方政庁として軍事的役割および政治・経済的役割を担い、筑紫野市の北部を含む範囲で「条坊制」と呼ばれる唐・長安城を範とした碁盤目の街割りを実施。大宰府と鴻臚館とを結ぶ官道や、大宰府の中央を貫く朱雀大路などが整備された。その後、平安時代に入って大宰府の権限が強化されると、筑紫野市の一帯もそれにともなって発展していった。

 だが、やがて鎌倉時代に入るまでに、官舎としての大宰府は解体・廃絶。鎌倉幕府によって大宰府には「宰府守護所」が置かれたが、西国(九州)の統括のための「鎮西探題」が博多に置かれたことで、九州における政治・経済の中心地が移っていった。戦国の動乱期には、大友氏勢力である筑紫氏・高橋氏と、島津氏との戦いが筑紫野市域でも繰り広げられ、多くの山城や館が築かれたとされている。その後、豊臣秀吉の九州平定を経て動乱の時代が過ぎ、江戸時代に入ると筑紫野市一帯は、黒田家が治める福岡藩となった。福岡藩によって長崎街道や薩摩街道、日田街道が整備されると、筑紫野市内には二日市宿や山家宿、原田宿の3つの宿場が設置。多くの人やモノが行き交い、宿場町を中心として発展していった。

(左)武蔵寺(右)天拝山歴史自然公園
(左)武蔵寺(右)天拝山歴史自然公園

鉄道路線の充実とともに、二日市を中心に発展

 明治期になり、1872(明治5)年には宿駅(宿場)制度が廃止。筑紫野市域においては、旧宿場地域を中心に交通・運輸・通信・金融・行政機関・司法・学校などが整備されていった。88(明治21)年には近代的自治行政の担い手とすることを目的に、市制町村制が公布。これにより筑紫野市域にあった34村は、89年に5村に再編された。5村とは二日市村(2,502人、435戸)、山口村(3,078人、510戸)、御笠村(2,896人、477戸)、筑紫村(3,422人、649戸)、山家村(1,577人、322戸)で、当時の筑紫野市域の人口は1万3,475人、2,393戸という規模だった。

 一方で、5村再編と同年12月には、九州鉄道(初代)の博多~千歳川間(現・JR鹿児島本線)が開通し、二日市駅と原田駅が開業した。すると、九州鉄道開通に着眼した博多の豪商・渡邊與八郎(当時は與三郎と名乗っていた)が、地元・二日市の富豪・谷彦一と組んで乗り出したのが、二日市温泉の開発だ。当時は、武蔵温泉という名で湯治湯として知られていた二日市温泉だったが、與八郎は庶民の湯治湯としてはもちろん、商都・博多のための格好の商談の場となると考え、江戸時代の旅籠とは違う近代的な温泉旅館街の建設に着手。延寿館や大阪屋、港屋、大丸館などが開業したほか、與八郎は高級貸し部屋のほか射的場、玉突き場なども備えた「薬師湯」を開設し、湯町は大いに賑わった。96(明治29)年にはかの夏目漱石が新婚旅行で訪れ、「温泉(ゆ)のまちや踊ると見えてさんざめく」という歌を詠んだという逸話も残っている。なお、與八郎はさらに土地の買収や建築、「武蔵温泉場公園」の造園などの開発を次々に進め、現在に至る二日市温泉繁栄の基礎を築いたとされている。

 1902(明治35)年3月には菅原道真の西遷一千年を記念して、二日市~太宰府間に馬車鉄道が開通。同路線は07年7月には太宰府軌道と改称し、13(大正2)年1月には馬車から機関車へと変わった。また、08年12月には二日市~甘木間で朝倉軌道(40年4月に鉄道全線廃止)が旅客運送を開始したほか、24(大正13)年には九州鉄道(2代目)の福岡~久留米間(現・西鉄天神大牟田線)が開通。筑紫野市域にも二日市駅(現・西鉄二日市駅)、朝倉街道駅、筑紫駅の3駅が設けられるなど、鉄道路線が充実していった。

(左)西鉄二日市駅(右)JR二日市駅
(左)西鉄二日市駅(右)JR二日市駅

 こうした交通インフラの充実を受けて、筑紫野市域でも旧宿場地域を中心にまちが発展。とくに二日市では大正期に魚市場、家畜市場、青物市場などが置かれたほか、御笠銀行、筑紫銀行、武石銀行などの銀行も設立されるなど、エリア一帯の中心地としての存在感を増していった。

 なお、筑紫野市域では全域的に養蚕が行われていたとされるが、筑紫と山家ではとくに盛んだった。1911(明治44)年に二日市生繭市場が開設されたほか、山十組製糸場・二日市工場の進出もあって、県内有数の生繭市場として発展。周辺エリア一帯から繭を集め、各製糸会社に向けて販売を行っていた。

 その後、太平洋戦争の戦時中においては、労働力の大半が戦場や軍需産業に動員されたほか、学徒動員や女子勤労挺身隊などの未成年の若者も軍事施設や工場に動員されたことで、農業生産が不能に。また、尋常小学校や高等小学校はすべて国民学校となり、一部の学校施設は軍部に利用されていた。そうした戦時中の総動員体制下では武蔵温泉(現・二日市温泉)も営業不可能となり、戦時協力で陸海軍関連病院や保養施設に転用されたほか、軍需工場に動員された学徒の宿舎などに利用されていた。さらに、現在の筑紫野市山家では、「第16方面軍司令部」を移駐すべく極秘裏に地下壕を掘削。45年6月の福岡大空襲後には西部軍司令部が山家の地下壕に移り、近くの農地には三角兵舎が並んだという。

二日市温泉街
二日市温泉街

(つづく)

【坂田 憲治】

(中)

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