2024年05月15日( 水 )

日本人よ、森を守ろう─「成長」に代わる新グランドデザイン考察(1)

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 明治維新以来、日本社会は欧米社会を近代化のモデルとして政策を行ってきた。大雑把にいえば、経済領域では資本主義経済の導入による工業化が図られ、政治分野では憲法の制定や普通選挙の導入、女性活躍推進など、欧米を追いかけるように社会を変革させてきた。福祉の分野でも、ヨーロッパ諸国をモデルに福祉国家の形成に取り組んできたし、当然近代化を目指した建築業界は都市化させることに注力した。明治以来の「欧米に追いつけ、追い越せ」も、昭和の列島改造も、自己ではない何者かになることを目指す「改造の論理」に貫かれたものだ。

 改造の論理の根底にあるものは、不都合なもの、不便なものは亡きものにしようとする自己否定だ。そこに国の未来はない。否定ではなく、改造でもなく、この列島の性質と国民の気質を受け入れ、価値を再評価する時期がきている。前号では「都市」について触れてきた。今号では、農山村部からこの国の骨格がどのように都市に向かっていったのか、その背景を探ってみたい。

(文献引用:日本列島回復論/井上岳一)

世界で最も豊かな、縄文の狩猟採集民

 森が豊かで水に恵まれ、川や海や湖があり、豊かな手業や知恵の伝統が受け継がれているような、人が古くから住んできた山麓部を日本人は「里山」と呼んだ。かつて日本では大半の人が里山を暮らしの場とし、仕事の場としていた。少なくとも中世まで、生活・生産の中心として、その場所は一等地だった。近世、平野部の開発が進み、都市と平地農村が発達して、生活・生産の中心が平野部に移っていくが、それでも森林の恵みに頼った暮らしをしていた江戸時代までは、里山はなくてはならない存在だった。

 変化が訪れる契機となったのが明治の近代化で、本格的な転機となったのが戦後の高度経済成長だった。以後、都市を目指す人の流れが加速し、里山は急速に衰退していく。しかし、里山がマイナーな存在になったのは、たかだかここ60~70年、明治の近代化から数えてもせいぜい150年のこと。それまで里山は、この列島に暮らす人々にとってなくてはならない存在だったが、その事実を都市に住む人々はほとんど意識しないまま過ごし、記憶から消えていこうとしている。

 弥生時代が始まる紀元前5世紀頃までの1万年以上の時代を縄文時代と呼ぶ。水田稲作が始まって本格的な農耕社会に移行するまでの間、縄文時代は狩猟採集中心の生活だったが、このような生活が1万年以上続いた文明はほかに存在しないという。世界的に著名な歴史家・生物学者のジャレド・ダイアモンド氏は、日本の縄文人のことを「世界で最も豊かな狩猟採集民」と評価した。縄文時代が1万年以上の長きにわたって続いたのは、農耕に移行するのが遅れたからではなく、森林の恵みがあまりにも豊かで、狩猟採集生活でも十分な暮らしが送れたからではないか、という仮説を述べている。

 つまり、農耕に移行する必要がないほどに、日本の里山が豊かだったということだ。とりわけ縄文人は、山の恵みである木を生かすことに長けていた。彼らは森のそばに住み、森の恵みを享受する一方で、森に主体的に働きかけることで、より豊かな山の恵みを引き出すことのできる「森の民」だったのだ。そして、その豊かな資源の恵みを持続可能なかたちで利用する知恵と技術を、彼らはもっていたのだ。

世界で最も豊かな狩猟採集民
鈍川渓谷 © 今治市
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)

山から下り平地の開拓へ

 弥生時代は、日本文化の基底となっていく稲作・農耕の技術、養蚕・絹織物・青銅器・鉄器・造船・紙すき・製塩等の技術が渡来人によって持ち込まれている。日本の近代化を支えた製糸、紡織、製鉄等の技術の原点は、この時代に入ってきて、いろいろな意味で現代に通じる日本の原型がつくられた。古代において山麓部が稲作の中心地となったのは、水害のリスクがないことに加えて湧水が豊富で、土が柔らかく、木製農具だけで水田の造成ができるという点で平野部より勝っていたからだ。

 しかし、それも中世まで。戦国時代には戦国大名のリーダーシップの下、河川改修等の大規模な土木工事が行われ、平野部に耕地や集落が拓かれるようになる。広大な濃尾平野から織田信長と豊臣秀吉が出てきて、秀吉が天下統一を成し遂げると、平野部の開発はいよいよ本格化する。徳川の治世が訪れてからは、それまでとは比べ物にならないほどのスピードで新田開発が進んだ。戦の世が終わったことで、大名たちが安心して土木工事に投資できるようになり、江戸時代最初の100年間で耕地面積はほぼ2倍へと膨らんだ。

 平野部の開発に合わせて、それまで山の上に築かれていた山城も平野部に築かれるようになり、その周囲に城下町が建設された。城下町に住んだのは武士と商工業者。江戸時代を通じて経済と文化の中心は山麓部から平野部に移り、暮らしの中心地だった里山の時代は終わりを告げた。ただ、それは里山が見捨てられたことを意味しない。江戸の人々は、それでもなお里山にある森林の恵みに強く依存していたのだ。

【日本の原風景①】
孤立集落、森のセーフティネット

 石巻市の市街地では、たくさんのボランティアが入って支援物資も潤沢だったが、電気もガスも水道も使えず、多くの人が不便な避難所生活を強いられていた。処理しきれない汚物やゴミを詰めたビニール袋が散在し、津波が運んできたヘドロの臭いと相まって衛生状態は劣悪だった。郡部の孤立集落ではボランティアもおらず支援物資もなかったが、漁師のお父さんたちが中心になって皆で助け合いながら生活していた。もちろん完全に孤立し支援物資も届かなかった間はかなり大変だったようだが、その時も流されなかった家に残った食べ物を持ち寄って、皆で均等に分け合ってしのいでいたという。

 災害時にその力を見せつけられるのが、自然の力、とくに森の存在だ。森には木と土と水がある。木があれば薪で暖をとり、煮炊きができるし小屋もかけられる。水は命の源であるだけでなく、炊事洗濯洗浄に使えるので、健康で清潔な文化的暮らしをもたらしてくれる。そして土は生ごみや糞尿を土に戻してくれるので、悪臭やごみとは無縁の生活をかなえてくれる。孤立集落でも、やはりその恩恵に与れたようだ。災害時、市街地の避難所がどこもゴミの山となって悪臭が漂ってしまうことを考えると、この土の力は人間にとって本当にかけがえのないものだといえる。

(つづく)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡 秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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