2024年05月03日( 金 )

経済小説「泥に咲く」(7)獣道のはじまり

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

獣道のはじまり

 勢事が採用されたのは福岡の都心部から西に車で30分ほどの場所にある拠点病院だった。国家資格を取得していた勢事はそこで、作業療法科の主任を命じられる。ただ、主任と言っても、そのうえに直接の管理者はいなかったので、実質、1人で運営しているようなものだった。

 翌年以降は部下もできたが、基本的には新卒で入ってくる20代前半の若者である。仕事は自由が効くし、院長や看護師長以下の看護師、事務スタッフとも良好な関係を築くこともできて、働きやすい環境が整っていた。

 午前中は患者を診ることで、息をつく暇もないほどの忙しさだったが、午後は比較的、自由な時間が確保できた。勢事はそこで専門学校時代に手がけていた発達障害児向けの教育をボランティアで提供するサービスを院内でスタートすることにした。

 院長は勢事の取り組みに賛成してくれた。それがほかの治療への知見を深めることにもつながるし、なによりも地域で暮らす人の役に立つことが病院の使命だという思想があって共感してくれたのだ。ところがサービスをスタートした翌年に赴任してきた新院長は、勢事の取り組みに否定的だった。

「岡倉くん、うちは小児科なんて標榜してないよ。君さ、いったい何やってるの?」

 この言葉を聞いた時から、ボランティアの件以外でも院長と意見が対立することが増えてきた。勢事は四六時中、「いつまで他人のシナリオを生きていくつもりなのか」と自問するようになった。人は自らの命を自らの手で具現化するために生きているというのに、本当にそのままでいいか、と。このままだと死ぬまで誰かの「召使」として、他人の言いなりの人生を生きるだけだ。どうせ召使いになるなら、自分自身の召使いになりたい。自分で自分を使役する存在でいたい。それが自分の人生を生きるということじゃないのか。

「そろそろ潮時かもしれない」

 それは本心だったが、じゃあ、辞めて何をするのか。勢事は行きつけのスナックのカウンターで、地元テレビ局の副社長である富士本に相談していた。

「そうか、障害児へのボランティアね。岡ちゃん、それって、ちゃんと金は取れるの?」

 富士本は右手の親指と人差し指でつくった輪っかを揺らしながらそう言った。

「う―ん、取れないことはないと思うんですけどね。ただ、全国でも前例があまりないし、福岡で成り立つかといえばかなり疑問です」
「まあ、いくら良いことでもな、金が回らんと続かんから」
「でも、俺、とにかくやってみたいんですよね」
「岡ちゃん、いつかは独立したいって、前から言ってたもんね」

 富士本は濃い目のウイスキーの水割りをぐっと飲み干す。

 勢事が富士本と初めて会ったのは、10年近く前のことになる。やはり中洲のスナックでのことだった。勢事は店のカウンターで、そのころ、勤めていた商社の同僚と会社の批判をしていたのである。すると突然、隣から「俺もそう思う」と低く、しかしよく通る声が聞こえてきた。
「会社ってバカなルールをつくるよな。でな、俺の部下なんか、何も考えずに、ただ守ってりゃいいって了見なんだよ。その点、君たちは骨がある。おかしいことは、断固、おかしいと言うべきなんだ。おい、君たち、俺の奢りだ。今日はとことん飲むぞ」

 40代の後半だろうか。しかし、体にはがっしりとした筋肉がつき、子どものように輝く瞳が印象的で、張りのある声を聞いていると、もっと若いようにも思えた。お互いの自己紹介から始まって、その夜は正体をなくすまで飲み続けた。

 そんな奇妙な出会いから始まった付き合いが、もう十年になろうとしている。この間に、勢事は転職し、富士本は出世をした。

「富士本さん、俺、悔しいんです。金さえあれば、すぐに独立するのに。あの院長の下で働くのは我慢がならないんです」
「なあ、岡ちゃん、君が本当に発達障害の子どもたちのための仕事をするというのなら、金は俺が融通するぞ」

 富士本は勢事の右手を取って、ぐっと握り締めた。地元の有力な社会人ラグビーチームのキャプテンから、最後は監督まで務めた男である。勢事は握手の力を強められて、痛みで声が出そうになるのを、必死でこらえた。

「岡ちゃんさ、君、いつも俺に『命の恩人だってことを忘れるな』って言ってただろ」
「いや、まあ、それは冗談で……」

 五年前のことだ。勢事が勧めた検査で胆管ガンが見つかり、そのまま手術までをすべてコーディネートした。早期発見だったこともあり、手術は成功。現在も再発や転移はない。

「冗談なのはわかってる。でもね、俺は感謝してんだ。あそこで人生が終わっていたとしても、おかしくないわけだから」
「でも、富士本さん、事業を起こすくらいの大金、いったいどこにあるんですか」
「岡ちゃんは忘れてるだろうけど、俺はもう60だぜ。この春で定年だ。退職金から1,000万、岡ちゃんに貸すよ。岡ちゃんの理想の施設がうまくいくようになったら返してくれ。利子はいらん。それでいいだろう?」

 富士本が握った手にさらに力を込めたので、勢事はさすがに唸った。

「富士本さん、手、そろそろ離してもらえません?」
「ああ、すまん」

 勢事はしびれた手を軽く振りながら、富士本のほうに身を乗り出した。

「それでいいだろうって……いいもなにも、俺に1,000万円も貸してくれるって、富士本さん、正気ですか。そんなの、奥さまが許しませんよ」
「女房は関係ない。これは男と男の約束なんだから。ねえ、ママ」

 富士本ともう何年も男女の関係にあるママは、複雑な顔をして笑った。

「それと、さっき言ったように金が回るかどうかはわかりませんよ」
「うん、聞いたよ。だからさ、岡ちゃん、俺は君を信じるから、ちゃんと成立させろよ。できるよ。岡ちゃんなら、きっとできるよ。俺なんかさ、自由そうに見えるだろ。でも、結局のところ、サラリーマンなんだよ」

 富士本は自嘲気味に小さく首を振った。

「やりたいことをやってきた人間と、自分を押し殺して我慢してきた人間、どっちが魅力的だと思う」
「比べられないような気がするけど、俺はやりたいことをやる人間でありたいと思っています」
「そう、岡ちゃんはね、そっち側の人間なんだ。もちろん、やりたいことをやれば必ず成功するというわけじゃない。ただ、やりたいことをやってみなければ、そもそも成功することなどない、というのは事実だよな」

 勢事は黙ってうなずいた。

「岡ちゃん、まずは自分を信じろよ。俺の経験上、強運を手に入れる人ってさ、みんな自分を信じきっている。これはまぎれもない事実だぞ」

 なるほど、勢事が出会ってきた成功者たちも、確かに誰もが自信たっぷりだった。
「自分を信じるのはね、岡ちゃん、口で言うほど簡単なことじゃないよ。でもね、自分を信じ切って、行動して、リスクを取った人だけが成功しているんだ」
「どれくらいの確率で?」
「まあ、10人に1人だろう」

 難しい顔をして黙っている勢事を、富士本は指をさして笑った。

「岡ちゃん、10%なんて確率が低いと思ったんだろう。でもね、自分が信じられない人の成功確率はゼロだぞ。岡ちゃんは10人に1人になればいいんだ。できるよ」

 富士本はここで、表情を引き締めて、「俺は単に岡ちゃんを褒めているわけじゃないんだ」と言った。

「自分の人生を生きるべきだってのは、それは正論ではあるんだが、ただ『人生、やらずに後悔するより、やって後悔したほうが良い』といった物言いは、無責任な世間知らずの言葉だ。無茶な苦労や借金、リスクを背負い込み七転八倒するなど普通の人はしないほうが良いに決まっているもんな」

 幼いころから勢事の周りには自営業を営む大人たちが多かったこともあり、借金苦で追い込まれていく人間はよく見ていた。

「自分が“地獄めぐり”をしているからって、他人や知り合いまで引きずり込んでいいわけがない。ほとんどの人間は安穏に生きることが幸せなんだよ。サラリーマンのなかでは、俺はちょっと外れた人間だったかもしれない。何度も辞めようと思ったよ。でもね、岡ちゃん、この年になって思うんだ。多分、俺はサラリーマンでよかったんだよ。カタギの道でよかった」
「富士本さんがカタギ……」
「そうだよ。俺は善人だ。悪ぶっている善人だ。俺に獣道を歩く勇気はない。でも、岡ちゃんなら行けると思うんだ。獣道を行く肚があると思うんだよ。その覚悟は、岡ちゃん、できるか」

 勢事は富士本の言葉を噛み締めた。深く噛み締めた。

「富士本さん、俺、覚悟できます。肚を決めます。本当にありがとうございます。時期がきたら、必ずお願いに行きます」
「よし、話は決まった。乾杯だ!」

 勢事は信じられない気持ちだった。そもそもは飲み屋で隣り合わせただけの縁である。それがこうまで発展し、実際に金が動く。世の中は何がどうつながるのかわからない、不可思議なものだと、そう思った。

(つづく)

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