2024年05月03日( 金 )

経済小説「泥に咲く」(8)母との別れ

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

母との別れ

 母、朝子はそもそも勢事の転職に対して否定的だった。せっかく地元では有名な企業グループに松田のコネで入社できたのに、一生安泰の約束を自分から反故にするなんて愚かだと嘆いていたのだ。

 しかし、肝臓の状態が悪くなってから、朝子の考えは変わった。朝子は幼いころに大怪我を負い、受けた輸血が原因でC型肝炎にかかっていた。持病とは騙し騙し付き合ってきたが、長年の水商売でアルコールの摂取は避けられず、肝臓はゆっくりと、しかし確実に弱っていった。

 勢事が病院に就職して2年が経つころには、症状はかなり悪化していた。具合が悪くなると、勢事が院長に掛け合い、個室のベッドを用意してもらった。ナースたちも勢事の母親ということで気を掛けてくれる。朝子が「退院したい」と言えば、手続きは即座に進んだ。朝子のわがままを、医師とスタッフが許し、支えてくれたのだ。

「ねえ、母さん。俺が商社を辞めたこと、間違った選択って言いよったよね」

 勢事はあるとき、ベッドに横たわった朝子にそう尋ねた。

「今もそう思うと?」
「いや、あんたが病院に勤めてくれたおかげで、お母さん、こんなに良くしてもらって感謝しとうとよ」
「現金なもんやね」
「そんな、勢ちゃん、病人を責めたらいかんよ」

 母の困ったように微笑む表情を見ながら、勢事はまんざらでもなかった。母には頼り、甘えてばかりの人生だった。少しは恩返しができたのかもしれない。その思いは勢事の心をほのかにあたためた。

 朝子の病状が悪化してから、松田はそれまで以上に献身的に世話を焼くようになった。

「勢ちゃん、明日からお母さんを青森の温泉に連れていくよ。肝臓にいいって聞いたから」
「そうですか。ありがとうございます」

 勢事は何気なく答えたが、松田の優しさがありがたくて、心のなかで何度も手を合わせた。

 朝子が入院するとなれば、松田は毎日のように見舞いにきた。仕事は忙しいはずだし、自分の家庭のこともあるだろう。余計なことだと思いつつも、勢事のほうが心配するほどの時間の割き方だった。

 朝子の死期が近づいていることは、医療人となった勢事には十分すぎるほどわかっていたし、松田にも「そう長くはないだろう」と伝えていた。覚悟をしておいてほしい、と。

 勢事が執務する五階に、副院長から内線が入ったとき、「ああ、これで終わったな」と直感した。階段を駆け下りて、四階の病室にたどり着くと、朝子の心臓はすでに止まっていた。蘇生に取り掛かろうとする医療チームを、勢事は止めた。

「副院長、これでもし意識が戻っても、母はまた痛みに耐えなきゃならないだけですから……ありがとうございました」

 勢事は誰よりも先に松田に連絡を取った。松田は1時間もしないうちに病院に駆けつけ、まだ温かみの残る朝子の手を握り続けた。

「松田のおじさん、母がこれまで本当にご迷惑をかけました。ありがとうございました」

 松田は「いやいや」と首を振る。

「救われていたのは、僕のほうだったんだよ。勢ちゃん、朝子さん、最後の日々は勢ちゃんと一緒で、良かったと思うよ」
「ずいぶん好き勝手しましたから、これが唯一の親孝行だったかもしれません」

 松田は勢事の肩を叩いて、何度も何度もうなずいた。

「力が足らんで、ごめんな。勢ちゃん、ごめんな」

 勢事はただ首を横に振ることしかできなかった。滂沱の涙は母の死に対してではなく、松田への感謝の念があふれたものだった。そして、このとき、「この人を目標に人生を生きよう」と心に誓ったのだ。

(つづく)

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