2024年05月06日( 月 )

経済小説「泥に咲く」(22)桃園の誓い

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

桃園の誓い

 高岡は誰がどこからどう見ても、「いい男」だった。福岡の大学の医学部を卒業し、専門はがん治療。すでに20年以上のキャリアを積み上げていた。

 芸能人に引けを取らない美丈夫で、そのキラキラとしたオーラは、女性だけでなく、男たちをも魅了した。若いころは俳優を志したというのも納得がいく。しかし、両親からの「医者になって欲しい」という願いを叶えると決心した高岡は、不屈の努力で医学部に現役合格して医師の地位を得たのである。

 勢事は人を見極めるポイントを、その人の「これまでの」運と縁と経験だと考えていた。その人の今までの人生を知れば、その人のこれからがわかる。いくら未来を語ろうが、だから無視することにしていた。なかでも、とにかく大事なことは、その人のこれまでの人生における「運の傾向」である。

 最もダメな運は極まってしまう人、すなわちドツボまで落ちてしまうタイプだ。さらに極まってからも転じようとしない人は、周りも悪運に引きずり込んでしまう。そうした人だけはなんとしてでも避けなければ、こちらの人生までダメにされかねない。この運という面では、高岡は強運をもった人間だった。

 それは高岡の「これまで」を見れば簡単にわかることだった。ある年代から急に成長する人はたしかにいる。しかし、伸びていく人物は、若いころから何らかのアクションを起こしているし、それにともなうトラウマやコンプレックスなどの闇と闘っている。

 創業者やトップリーダーになる人に多いのがド貧乏で育ったか、コンプレックスまみれの出目をもった人間だ。足りない環境だからこそ、汗をかいて、知恵を使わなければならず、その過程が人を鍛える。覚醒や覚悟が起こる。

 逆に物事が足りている幸せな環境に育った人物は、目が覚めず希望や幸福を希求する覚悟ができない。幸せな人は、いつもどこか眠っている。目が覚めてないから気づきもなく、幸せそうにボーっと一生を送る。やはり人間は、気づいて覚醒し、覚悟して希求する人生が劇画のようで面白いのです。

 高岡はコンプレックスと対峙しながら、自分自身で運をつかんできた人間だった。逆に言えば、明るいだけでは、いざという時に腰が折れて使えない。高岡はそんな「やわなヒーロー」ではなかった。暗い面を内包しながら、光の領域に這い上がり、自らが輝くことで、普通の人間には心の闇を気づかせない。ある意味で、ダークヒーローという側面をもっていた。だから勢事は高岡に対して創業者としての1つの資質を保有していると評価していた。

 さらに言えば、リーダーとなるパートナーを選ぶならば、勝ち癖とまでは言わないが、少なくとも勝った経験のあるリーダーでなければならない。その意味で、高岡は「勝ってきたリーダー」だし、「これからも勝てるリーダー」だった。

 もう1つ、勢事が人を評価するときに大事にしてきたのが「瞳」だった。卑屈、卑怯、臆病は、必ず瞳に出る。こういう輩は初めから近づけないことが肝要だ。

 また、いつも目が笑っているのは、頭の足りない証拠である。締まった男の目は笑わない。いつも目が笑っているような人物は、借金を無心してもいい、頼み事をして返さなくてもいい、すなわちどうでもいい、都合の良い人なので、これもやはり付き合ってはならない。

 期待がもてるのは、斜め下から切り込むような視線を投げてくる男だ。高岡はそのタイプである。ただ、その瞳が単にギラついているだけならば、自分のことしか考えない要注意人物である可能性が高い。勢事にとって高岡に対する唯一と言っていい懸念はその点だった。もし、主導権を握られれば、勢事のほうが排除されるかもしれない。高岡はそれくらいの強さと自負と傲慢さをもっていた。それらは勢事が求めるリーダーには不可欠な要素であるとともに、寝首を掻かれるリスクでもあった。

 この高岡を『徳山ホスピタル』の院長に据えれば、再生の可能性はぐんと高まるだろう。でも、これだけの玉を使うに値する病院なのだろうか。勢事は否定的だった。ピカピカの高岡には、ピカピカの病院を与えたい。勢事の見立てでは、徳山ホスピタルは、高岡にまったく見合わなかった。

 しかも徳山ホスピタルは、すでに崖っぷちまできていた。

「岡倉さん、すべてのキャッシュをかき集めても、もう300万円も残っていません」

 竹島から報告を受けたとき、勢事は「これで終わりだ」と覚悟した。八十床の病院である。そんな少額で回るわけがない。

「竹島、今夜、俺に付き合えるか」
「ええ、もちろんです」
「高岡先生を呼んで、一緒に飯でも食おう」

 3人は勢事の行きつけの、こぢんまりとした居酒屋にいた。競争の激しい福岡で客足が絶えない理由は、看板メニューのおでんの味と、東京の人間が目を丸くするほどの安さだ。普段、人脈づくりのために高級店で食事をすることの多い勢事は、気の置けない仲間とはむしろ、庶民的な店で杯を交わすことにしていた。

「高岡先生、俺はもう、徳山ホスピタルを捨てようと思っている」
「そうですか。残念だけど、仕方がない。まあ、さすがにボロボロですもんね。正直、俺自身、あれはやりたくない」

 高岡は端正な顔立ちを歪めて笑いながら、そう答えた。

「実はね、もうキャッシュがない。俺は竹島だけを抱えて、いったんどこかに逃げて、また別の病院を食い物にするよ」

 勢事がそう言った瞬間、竹島がどんとテーブルを叩いた。

「私が入れた職員はどうなるんですか」

 竹島は泣いていた。

「おまえ、どうした?」
「医者も看護師も、事務スタッフも、今はほとんどが、私が採用した人たちです。彼らの生活はどうなるんですか。私は彼らに理想を語ってきました。私の言葉に賛同して、ともに改革を進めてきたんです。ここまできて、それを嘘にはできません」

 いい歳をして泣くな、と思った。船越の金で何度もハワイで豪遊したくせに、いきなり善人顔をするな、とも考えた。しかし、竹島の涙に、胸を打たれている自分がいることも、勢事は認めざるを得なかった。

「竹島、わかったから、まあ、落ち着け」

 次の企みの相談をするつもりだった勢事は、すっかり勢いを失ってしまった。三日後、同じ店に、同じメンバーで集まることを約束して、その日は早々にお開きとなった。

「私はやっぱり納得いきません。岡倉さん、捨てるなんて言わないでください」

 竹島は次の会合でも、そう熱く語りながら涙を流した。勢事と高岡は互いに困惑の表情で竹島を見つめる。

「高岡先生、どうする?」
「う―ん、そうですね……」

 高岡には迷うだけの事情があった。医者としての技術には、もちろん自信があったが、他の医者と違うのは、その営業力にあると自負していた。実際、北九州の大病院で乳腺外科の部長に就任すると、たった1人で周辺の病院を開拓し、ほどなくして目標以上の拡大を実現した。

 高岡はその実績をもって、理事長に対して副院長のポストを要求したのだが、交渉にさえならずに一蹴されたのだった。この処遇を、高岡のプライドは許さなかった。居酒屋での二度目の3人の会合の日は、高岡が勤め先の理事長に辞表を叩きつけて、飛び出したばかりのときだったのだ。

 もちろん、勢事はそのことを知っていた。高岡のようなプライドの高い人間に、たとえば三顧の礼で臨もうものならば、その時点で高岡が優位の関係性が出来上がってしまう。これを後で是正するのは、不可能に近い。

 だから高岡には自分のほうから「やらせてくれ」と言わせる必要があった。いずれパートナーとして迎えたいと考えていた勢事にとって、高岡自身から仲間に加わりたいと言わせることが、これまで大きなハードルになっていたのだ。

 竹島が泣いている。高岡が同情している。これは千載一遇のチャンスかもしれない。勢事の直感が働いた。

「高岡先生、ご覧の通り、竹島は本気です。先生、改めて聞くけど、どうする?」
「わかった。徳山、俺が行くわ」

 高岡はテーブルを一気に明るくするような笑顔でそう言った。勢事は心のなかで「来たな」とほくそ笑んだ。病院は潰れかかっているのだから、決していい状況だとはいえない。しかし、高岡が参画するならば、彼は一騎当千である。組織はリーダー次第。この男がいれば、必ず再生できる。そう確信した。

「なあ、俺が行くから。竹島、もう泣くな。一緒に頑張ろう」

 高岡が竹島の肩を叩きながら声を掛ける。竹島は嗚咽しながら、何度もうなずいた。勢事はそのシーンを微笑んで眺めながら、熱燗の杯をぐいとあけた。

(つづく)

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