2024年05月06日( 月 )

経済小説「泥に咲く」(23)型に嵌める

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ
法人情報へ

 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

型に嵌める

 高岡を仲間に取り込めたのは、勢事にとって極めて明るい要素だったが、キャッシュの問題はまったく解決していなかった。

 高岡は慢性期医療が中心の徳山ホスピタルを、急性期中心に改革していくに違いない。現在の病院はいわば老人のための病院で、重たい病を持つ高齢者を入院させ、その最期まで看取るやり方を経営の柱としていた。高岡はこれを「治す病院」「退院させる病院」へと転換すると宣言していた。

 これは国の方針にも沿った、勢事も納得する計画であった。むしろ病院を生き返らせるには、その道しか残されていなかった。ただし、改革を進める過程では、一時的に入院患者が減り、そのぶんは新規の来院者の増加によって補っていかなければならない。退院させる動きが先になるため、それがバランスするまでにタイムラグができるのは避けられず、支えるためのキャッシュがどうしても必要だった。

 しかし、徳山ホスピタルは明日の運営費にも困っているのが実情である。とにかくキャッシュが必要で、その算段はほかでもない、勢事の仕事であった。

 もちろん金のことはずっと考えてきたことだ。金融機関からの調達は八方に掛け合ったが完全に無理。このボロ病院の未来に金を出す有力者も思いつかない。1点だけ、前と違うのは高岡がいることだ。ピカピカのエースを使って、何かしら絵が描けないか。

「行ける!」

 コンフィデンシャルパークの田邊の顔が浮かんだ瞬間、勢事の体に電流が走った。駐車場経営で株式公開した敏腕経営者で、勢事とは旧知のなかであり、かつホテルのスパの会員として月に何度か顔を合わせては、近況を語り合う仲であった。

「田邊を型に嵌めよう」

 勢事の頭のなかには、入口から出口まで、一気にストーリーが構築された。
田邊がスパに来る曜日と時間はわかっていたので、そこに合わせて訪れ、偶然を装って挨拶を交わす。シャワーを浴び、湯船でリラックスしている田邊に、勢事は自然に近づいた。

「ナベちゃん、最近はどう?」
「いやあ、相変わらずよ」

 すでに友人のように話せる関係性ではあった。

「岡ちゃんの方は?」
「それがね、ほら、山口の徳山の病院、あっちが大変で」
「どう大変なの」
「キャッシュが回んなくてね」
「ほう」

 その瞬間、田邊の目の色が変わったのを、勢事は見逃さなかった。
勢事が田邊をロックオンしたのには理由がある。彼は高校を卒業した後、検査会社でクリニックまわりをしていた経歴がある。医者を相手に惨めな経験をしたことは、容易に想像がついた。いまや上場企業の社長だとは言っても、古傷は当然ながら疼く。疼き続ける。

 田邊はきっと、自分の権力で医者をコントロールしたいはずだ。無意識かもしれないが、人間ならば誰もが「意趣返し」の欲望がある。「病院が手に入るかもしれない」という話は、つまり「医者を自分の配下に置ける」ということであり、それは田邊にとって、たまらなくうまそうな果実なのである。

 そんな考えはおくびにも出さず、勢事は淡々と続ける。

「一方でね、最高の医者をスカウトできた。とんでもない才能がある男だから、再生の成功は間違いないんだけど、資金繰りとの兼ね合いで、改革が間に合うかどうか、それで悩んでいる」
「そんなことなら、岡ちゃん、俺が協力できるかもしれんよ」

 ほうら、釣れたと勢事は快哉の声を上げたかった。はやる気持ちを抑えながら「じゃあ、来週でも時間とってくれる?」と、できるだけ冷静な声で尋ねた。田邊はうれしそうにうなずいた。

 翌週、高岡をともなって勢事はコンフィデンシャルパークの社長室を訪れた。さすが上場企業だけあって、立派な造りである。深々と沈みながらも、しっかりとした弾力に押し返されてバランスする見事なソファに座り、勢事は供された深煎りのコーヒーをゆっくりと味わってから口を開いた。

「ナベちゃん、まずは高岡の話を聞いてくれる?」

 高岡が身を乗り出し、まずは自分の経歴を語った。多くの光をたたえた瞳を見ていると、勢事さえ、その魅力に取り込まれそうになる。田邊を見ると、まるで好々爺のように笑顔で頷いている。

 立て板に水の自己紹介を終えると、高岡はタブレットのプレゼンソフトを開き、病院の改革の方針を淀みなく語った。数字が出てくると、田邊は瞬時に経営者の顔に戻る。的確な質問が飛び、高岡はそれらを確実にキャッチして、説明を補足していった。勢事は胸のなかで「これで第一段階は突破したな」と思った。

「ナベちゃん、どうよ?」
「いやあ、高岡先生はいいね。うん、間違いなく再生できるよ」
「ああ、そう思う? ナベちゃんが太鼓判を押してくれるなら、いやあ、これは心強い」

 高岡が「ありがとうございます」と、日本晴れのような笑顔で小さく頭を下げる。

「ナベちゃん、徳山ホスピタルに投資してもらえる?」

 投資という言葉をあえて使ったのは、いずれ病院は田邊のグループに入るという意思をにおわせるためだ。

 以前、勢事は田邊からコンフィデンシャルパークの子会社で、医療機器を扱うコンフィデンシャルメディカルの社長になってくれと言われたことがあった。

「何で俺がナベちゃんの下で社長になるんよ。俺なんか入れたら、あんたひっくり返されるよ」
「いや、岡ちゃんはそんな人間じゃない」
「そんな人間なんだって。俺は悪い人間。あんたはいい人間。悪いことは言わんから、俺のようなのを仲間にしないほうがよい」

 まったくの本心だったが、田邊は勢事の言葉を、謙遜と取っただろうし、体よく断るための方便と捉えただろう。

 だから田邊の気持ちは今、高揚しているはずだ。自分の下につけたくても拒絶してきた男が、ピンチに陥って自らこちらの軍門に降ると言ってきた。この好機を逃してはならない。そんな心理が働いているはずだと、勢事は冷静に読んでいる。

 田邊は謙虚な人間だが、成功者となった自分に「誰もがひれ伏すはずだ」という奢りが、どこかにあるはずだ。勢事が頭を下げて相談してきたことで、その意識は強化される。無論、この強化の過程は快感をともない、やはり高揚につながる。交渉ごとでは、その高揚感、つまり「喜び」が命取りとなるのだ。」

 禍福は糾える縄の如し。喜びからスタートする事案には、必ず罠がある。ぬか喜びは禁物。いちいち喜ばないこと、感情の起伏をなくすことが大切だ。

 だから交渉においては「喜ばない。悲しまない。怒らない。楽しまない」を心がけなくてはいけない。平常心こそが負けないコツなのである。

 とくに自分が喜ぶような事柄が、他者によってもたらされるときは注意が必要である。相手から仕掛けられている可能性が高いからだ。

 逆に言えば、仕掛ける側に回るときは、相手を喜ばせ、ゆるめることが肝要だ。感情を動かすことでコントロールする。つまり手玉に取るのである。

 もちろん、田邊ほどの人物を嵌めることは簡単ではないが、勢事は田邊の「医者へのコンプレックス」と「勢事に対する支配欲」に賭けた。そこに若干のゆるみが生じるはずである。隙間があけば、そこにくさびをねじ込むことで、重い扉が開く可能性は高くなる。

 勢事の投資の依頼を受けて、田邊は目を閉じ、ソファに背中を預け、思考をめぐらしているようだった。場の緊張が高まる。高岡が唾を飲む音が聞こえた。

「岡ちゃん、俺が今すぐに自由にできる金は二億五千万。それで足りる?」
「ああ、それはありがたい。すぐに借用書を……」
「いや、借用書はいらん。あんたと俺の仲じゃないか」

 勢事と高岡は深く礼をして社長室を後にした。勢事のベンツの助手席に乗り込んだ高岡は、ニヤリと笑いながら、「岡倉さん、俺を売りましたね」と言った。

「まあ、高岡先生をネタに金を引っ張り出したのは、事実だね」
「俺には『どうぞどうそ、あなたにこの男を差し上げますから』って言ってるように聞こえましたよ」
「ああ、確かに。俺の言葉を翻訳すればそうなるね。その意味では売ったといえるかもしれんけど、でも、ナベちゃんはいつまで経っても、買ったつもりの商品を手に入れることはできんからね。本質的には何1つ、売ってない」
「いや、岡倉さん、よくこんなこと思いつくし、実行できますね」
「だって、これがなかったら徳山ホスピタルはおじゃんだろう。背に腹は変えられんよ」

 田邊はいい男である。しかし、自らのコンプレックスに気づかず、不用意に話に乗ってしまったのは、彼の責任だと勢事はそう思うから、罪悪感はない。田邊は金持ちだが、「駐車場屋では終わりたくない」という気持ちがある。病院経営者に「成り上がり」たいのだ。そんな田邊の欲望こそが勢事にとっての「勝ち目」であり、自らの「食い物」である金を引き出すために押すべきボタンであった。

 高岡という餌に、まんまと田邊かかったことは我ながら見事な仕掛けだったと勢事は満足していた。洞察し、仕掛けをセットアップし、コマセを打ち、予定通り大物を釣り上げたのだ。ただ、さして喜びはなかった。絵を描いた時点で結果は見えていたから、「こうなるのは当たり前」という感じだった。

 それよりも思考は、高岡と竹島を中心とした病院の再生計画に向いていた。手に入れた金はしっかりと増やして、田邊に返す。それは勢事の矜持であり、命を賭けても実現しなければならないことだった。しかし、田邊に病院経営のハンドルを握らせることなど、1%の可能性さえ考えていなかった。

(つづく)

(22)
(24)

関連キーワード

関連記事