2024年04月29日( 月 )

経済小説『落日』(24)魂胆

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谺 丈二 著

 井坂には社長就任しても、しばらくは役付き役員のメンバーを変える気はなかった。井坂から見れば、人心一新の新は心だけ十分だった。しかし、事前に役員構成を大きく変えないことをそれとなく幹部社員に話すと、牧下を専務として継続登用することに社内のほとんどの幹部が反対した。人格、能力ともに問題ありというのがその理由だった。

 牧下は若いころから朱雀のもとでその一挙手一投足をつぶさに見てきた。そんな牧下は公私にかかわらず、朱雀の人となりを知り尽くしていた。朱雀の思いの先回りをすることにかけて牧下に勝る人間は朱雀屋にいなかった。

 狡猾で怜悧なその素顔を牧下はいつもにこやかな童顔でかくして朱雀に接した。朱雀は誰よりの牧下をかわいがった。朱雀は、そんな牧下を育ての息子と公言するほどだった。

 朱雀には娘はいなかったが、もしいたとしたら、間違いなく牧下に嫁がせたという人間さえいるほどだった。実際、朱雀は牧下が犯したどんな失敗も不祥事もそれを許した。その盲愛ぶりは実の息子の朱雀一茂を超えるものだった。そんな牧下を井坂がそのまま登用することにだれもが首をひねった。

 業界の評判も悪く、幹部社員からの人望もない牧下が朱雀時代を引き継いでナンバー2に座るということが妥当ではないということくらい井坂にもわかっていた。井坂の目的が単に朱雀にとって代わるということなら牧下は不要だった。新生朱雀屋を考えれば、創業者の側用人とも言われた牧下の継続登用はむしろ大きなマイナスかもしれない。しかし、井坂には魂胆があった。

 井坂が目を付けたのは朱雀の純粋さとその対極にある牧下の不純だった。
 井坂は、単に朱雀を朱雀屋から追い出すだけでなく、牧下を使ってその全財産を吐き出させようと考えていたのだ。

 西総銀には朱雀から預かった株式と経営権を創業家に返すつもりは毛頭なかった。安全かつ有利な融資先であればこそ、銀行は紳士の顔を見せる。逆に融資を含む投資が回収できないとなるとどんな手を使ってでもその回収を図る。

 朱雀屋の場合はこの手段を選ばずというのが銀行の方針であり、井坂にとってそれは加藤から下された無言の命令だった。

 井坂が考えたのは朱雀の資産は家族の持ち分も含めてすべて取り上げることだった。

 これには伏線があった。数年前、西日本総合銀行は朱雀屋と同じように経営危機に陥った中堅食品製造会社の創業者から20億円ほどの個人資産を供出させることに成功していた。
 その食品会社に社長として派遣されたのは井坂の同期でライバルだった田崎という男だった。

 田崎は食品会社の創業者から名誉と従業員の継続雇用を人質に、その個人財産を提供させることに成功し、経営再建をはたす前に銀行内でヒーローになった。

 負けず嫌いの井坂としては田崎を意識しないわけにはいかなかった。株を除いても朱雀の資産は数十億を下らない。丸々手に入れればそれはそのまま井坂の手柄になる。不本意のなかで朱雀屋にきた井坂だったが、その心のなかは仕事人生の大半を過ごした銀行への憧憬と加藤への反感が相半ばしてくすぶり続けていた。田崎が使った手段をそのまま誇り高い朱雀に用いて、その財産を吐き出させることができれば両方の思いを満たすことができる。

 ワンマンである朱雀はどちらかというと論理的な発想より情に絡めて物事を決めた。加えて一度信じた人間はとことん信じるという性格でもあった。そんな朱雀を説得して、私財を差し出させるには牧下を利用するのが最も確率の良い方法だと井坂は考えていた。それが社内、外の強い反対意見を退けて牧下を登用した理由だった。牧下登用のデメリットを朱雀の全財産奪取というメリットに変えたかった。

「結構うまくいきそうです。いい改革案が出てきています」

 新経営計画という命題で若手幹部を集めての合宿会議を、ホテルのカンファレンスルームで続ける犬飼からの経過報告に井坂は満足そうにうなずいた。

 合宿のやり方はホテルに缶詰めで討議というかたちである。テーマを決めて新しいことを計画するときに銀行でよく使ったやり方だった。

 限られたメンバーで狭い空間での会議を重ねるとお互いの親近感が急速に深まる。いわゆる異体同心というやつである。そうなると人は秘めていたものをあっさりと表に出す。犬飼にとってそれが情報でも知恵でもよかった。もちろん、そうは言ってもこれは井坂にとってセレモニーに過ぎない。基本的な経営方針と計画は犬飼と自分ですでに決定している。

 セレモニーが終われば後は銀行から人事のエキスパートを呼んで各部の生え抜き幹部の動向と能力を把握し、自分たちの方針を言い含めてそれぞれの力に応じて現場に再配置すればいい。

 井坂の本格的な出番が近づくと犬飼は分厚い冊子を井坂に届けた。表紙には新経営計画と記されていた。副題は『1人がつくった会社から1万人がつくる会社へ』犬飼と犬飼が懐柔した中堅、若手幹部の意見も一部取り入れてつくり上げた朱雀屋の再建計画だった。

「うん、なかなか良くできているじゃないか」

 井坂は犬飼から受け取った冊子に眼を通しながらつぶやくように言った。

「はあ、企画立案の基本は何でも同じですから。問題はこれをどうやり上げるかです」

 犬飼が笑顔で言った。

「そうだな、あとはこれを徹底させて実利に結びつけるのがお前さんの仕事かな」
「ええ、本部の幹部からは大方の賛同を得ていますし、あとは店長会議で計画の実行を繰り返し訴えようと思っています」

(つづく)

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