2024年05月17日( 金 )

経済小説『落日』(63)困惑4

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谺 丈二 著

「業者の間で朱雀屋は大丈夫か、という話が飛び交っているようだね」

 定例幹部会の休憩時間を利用して、コーヒーを前に久保英二は石井一博と向かい合った。

 石井の耳に朱雀屋に関するよからぬ噂があると耳打ちしたのは古い付き合いのある取引先だった。

「どんな噂ですか?」
「先行きが厳しいんじゃないか、といういつものやつだけど」
「そんな噂は今に始まったことじゃないでしょう。もう10年近くそんなことを言われ続けていますから。気にしても仕方ないでしょう」

 さめた笑顔で久保がいった。

「それはそうだけど、取引先から直接聞いたのは初めてだからね」
「そうですか。最近は決算のたびに、取引先に無理を言って黒字をつくっていますからね。彼らにしてみれば『いい加減にしてくれ』ということでしょう」
「そうだね、決算ごとにこの調子じゃあ、取引先にすれば不安で仕方ないだろう。うちにもしものことがあれば、彼らにとってまさに死活問題だからね」
「加えて、自分たちを踏み台にしてのなりふり構わない黒字操作は彼らから見れば腹立たしい限りでしょうからね」
「彼らの気持ちを考えると心が重いね」
「まぁ、それでも今年も何とかなりますよ」

 そういいながらも久保は先日、ふと耳にした妻の幸恵の言葉を思い出した。

「あなた、先だって稲川社長の奥さまにお会いしたんだけど、ご自宅にいろいろなOBや現役の方が訪ねていらっしゃるんですって」

 そのときは何の気なしに聞き流した久保だったが、改めてその言葉を頭のなかで反芻した。ひょっとしたらそれは、「反井坂」の動きの具体化かもしれなかった。怪文書の出もとが、もしそのあたりだったとしたら、意外と面倒なことになりそうな気がした。一片の怪文書が業界紙に載り、さらにそれが一般紙の取材対象になって最終的に法的な検挙を含む不祥事になった例は少なくない。

「あ、そろそろ時間ですね。行きましょうか」

 妻の言葉を石井に伝えることもなく、腕の時計を見ながら久保は空になった紙コップを握りつぶした。

「またですか。営業はどうしているんですか。利益がないなら後は借りてつくるしかないでしょう。営業がつまらんから、バブル以降こっちは無理と苦労のしっ放しだ」

 専務応接室で犬飼と牧下から決算の取り繕いを相談されて、太田は吐き捨てるように言った。

 朱雀屋の決算は財務が仕切る、と言われてすでに久しかった。10年ほど前、決算役員会で不足の利益を財務で何とかするようにと言われた銀行出身の財務担当役員は、当時課長だった太田に資産処分を指示した。それからというもの、資産処分の決算が恒常化していた。バブル期にはかなりの金を株で運用し、営業の補てんに回した。逆にその崩壊時には大きな損失も発生した。これらの対策に苦心したのは太田だった。

 もちろん、いまの朱雀屋に資産らしいものはほとんど残っていない。不動産の大部分は金融機関の2重、3重の抵当に入っている。近年は子会社に借り入れをさせ、その金でタダ同然の本体の資産を買い取らせ、借入そのものを利益にするといった考えられない手法にまで手を染めている。

「カネのない問屋には、借り入れでカネをつくらせるしかないでしょう。取引先には私が営業役員を介して交渉します。犬飼常務は西総銀への根回しをお願いします。各支店から上がる取引先の融資申し込みは全部通すように手を回してください」

 使う手に詰まって太田が考えたのは取引利益の先取りだった。一般的な粉飾としては決算前に架空の仕入れを計上し、それを棚卸資産に加えるという手を使うが、朱雀屋はそれでは追い付かないところまできていた。残された方法は取引先に銀行借り入れをさせ、その金をリベートとして、一時的に借りるという方法である。決算が終わって、借りた分の金額に合わせて伝票納品させ辻褄を合わせる。

 しかし、あらゆる苦肉の策もむなしく、中間決算で朱雀屋は上場以来初の赤字に転落していた。さらに通期で赤字となれば、尋常な事態ではない。しかも、その赤字は普通の赤字ではなく、繕い続けた挙句の赤字である。とどまることなく流れ込む臭いものにふたをし続けてもいつかは溢れる。

「石井さん、頭が痛いですよ」

 久しぶりの久保からの電話だった。

「どうしたの? いつもの久保取締役らしくないね」

 くだけた調子で石井はこの若い取締役の電話に応じた。

「取引先が泣き付いてくるんですよ。決算対策で架空納品させられた挙句、今度は架空返品です。業者によっては、実際納品した分から架空返品と相殺というとんでもないことになっています」
「え、納品してもまともに支払ってもらえないってこと」
「そういうことになります」
「そんな馬鹿な、いっぺんに資金繰りに詰まるじゃないか。場合によっては訴訟沙汰になるよ」
「実際2、3の業者がそれをにおわせているんです。これまで無理してついてきてくれた取引先も少なからず離れていっていますからねえ」
「店舗の在庫にしても本部コンピューターで数値操作していますから、店長も実際の数字がほとんど分からなくなっています」
「ああ、私も画面で数値を見ているけど、ちょっとひどいね。店では監査法人会計士との戦争だろうね」
「ええ、今のところ不正棚卸が表に出たところは店長の独断ということで処理していますが、そのうちこの堤防も切れるでしょう」
「このままいくと経営トップは背任に問われませんか?」

 久保が心配そうな顔をした。

「背任か‥。情緒的にはまさにそうだが、法的には井坂さんが会社を利用して明らかに大きな私的利益を手にしたという立証が難しいだろう。おそらく、検察は動かんだろうね」

(つづく)

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