「無言館」という名前の美術館が長野県上田市にある。太平洋戦争など志半ばで戦死した画学生の遺作、遺品を展示している美術館だ。開館は1997年5月2日。館主は窪島誠一郎氏。学徒出陣後、奇跡的に生還した画家・野見山暁治氏の、「戦死した仲間たちの絵」の話に共感。氏とともに全国の戦没画学生の遺族を訪問し、300点余を収集。これを基に「無言館」を開いた。私にはどうしても「無言館」を訪れなくてはならない理由があった。
「無言館」で感じる戦没画学生の無言の叫び
6月12日、新幹線で上田駅。上田電鉄別所線で下之郷駅。バスで無言館前下車。丘の上にある公園から眼下に上田市の市街地が広がる。はるか東の空の下に浅間山や烏帽子岳の稜線がくっきりと見える。気がつくと明らかに都会とは違う空気を感じた。公園を通り抜け、坂道(意外と急坂)を250mほど登る。不意に雑木林のなかに現れる無言館。建坪120坪の教会を思わせる建物だ。
建物の正面には左右に扉が2つ。でも「入り口(entrance)」の文字がない。向かって右手の扉(もどき)を開けると一瞬、異空間に引きずり込まれる。暗い。湿度のある空気、清閑さが重くのしかかる。コンクリート剝き出しの壁にかけられた大小の絵。背中に異様な気配を感じて振り向くと、壁一面に顔と衣服の一部が剥がれ落ちた上半身の男性と思しき絵が迫る。『少年飛行兵立像』と題する油絵だ。破損した分、余計に迫力を感じさせる。作者は大貝彌太郎。「明治四十一年福岡県遠賀郡に出生。昭和二年東京美術学校師範科に入学。十九年長崎地方航空機乗員養成所教諭となり、特攻隊飛行兵の絵をのこす。二十一年、結核のために死去。享年三十八歳」という添え書きがある。野見山氏の「大貝氏は戦没画学生ではないが、この作品は非常にリアルに当時の戦争という状況をあらわしている。これだけ特別にあつかうことはできないだろうか」との進言を受けた窪島氏は、「戦争の物的遺産としての説得力がある」「『戦没画学生』というより、『死にむかう若者の旅発ちを至近距離で見送った教師』としての完成度の高さ」を優先して収集したと述べている。
椎野修の『月夜の田園』(油彩 1937年作)にも衝撃を受けた。静まりかえった人っ子1人いない幻想的な田園風景。月夜なのに肝心の月影がない。にもかかわらず、どことなく明るさを感じさせる不思議な絵だ。椎野は大正二年福岡県生まれ。昭和十三年東京美術学校油絵科を卒業。藤田嗣治に師事。十九年に再応召され、二十年三月二十七日ビルマ(現・ミャンマー)にて戦死。大貝の人物画と違い椎野の作品は風景画なのだが、「生きて絵を描きたい」という叫び声が強く聞こえてくるような気がした。
画学生を戦場に送り出した遺族の想い
窪島氏たちが訪れた遺族のなかには、画学生の遺作や遺品を手放す(無言館に預ける)ことを固辞したり、ためらったりする人もいた。関口清は『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』の見開きの絵(宮古島の野戦病院で死の直前に描いた断末魔の自画像)で知られている。マスコミに引っ張りだこで、これ以上遺品や遺作を人目にさらしたくないという遺族の気持ちに窪島氏の心が揺れる。「いうまでもなく戦後五十年という年月は、私らがかれらの絵を忘却し黙殺し続けた年月であり、日本じゅうのだれもが戦後の復興と繁栄に酔いしれた年月であった。しかし今になって、そうした年月のゆりもどしのような、いわば私たちがこれまで果たそうとしてこなかった責任、戦後五十年分の責任を一挙に果たそうとでもするようなマスコミ攻勢が遺族を悩ませているというのである」と家族の門外不出の気持ちに寄り添う。
池澤賢の場合、残された遺作を遺族の手で裏打ちや修復を施した万全の状態で保管されていた。理由は優秀だった賢を遺族全員が誇りに思っていたことだ。遺族の1人は、「今回のお申し出の主旨に何ら反対するつもりではありませんが、いっぽうで私たちは私たちの手で賢さんの絵を守ってやりたいという気持ちも捨てきれないのです」という返事に抗する言葉が見つからない。
「兄ののこした絵は兄の生命そのものでした。戦後ずっと私が独身を通してきたのも、すぐそばに兄の絵があったから、どこかで兄が自分をみていてくれるという安心感があったからだと思います。そういう意味では、兄の絵は私の人生のお守りみたいなものだったんです」と話す太田章の妹和子さん。「父の顔を知らない私にとって、父の絵は父を思いうかべる唯一のよすがでした。父がどんな絵を描いていたかということより、父が絵を描いていたという事実の証として、私には父の絵がだいじだったんです。ですから、父の絵は芸術作品というより、やはり私ら家族にのこしてくれた遺品という感じが強いんです」と話す中村萬平の遺児暁介さん。戦没画学生の絵の収集には、遺族の思いも重くのしかかっていることが分かる。
『陸軍分裂行進曲』はさまよい続ける
五年前、「『陸軍分裂行進曲』と2つの『君が代』」(平凡社新書)を出版した。43(昭和18)年10月21日、明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で挙行された「出陣学徒壮行会」。そこで演奏された行進曲(『陸軍分裂行進曲』)は、シャルル・ルルーというフランス人の手による作品である。正確にいうと、1884(明治17)年に、お雇い外国人音楽家として来日したルルーが『扶桑歌』と『抜刀隊』を作曲。それを日本人の何者か(多分軍部に関係する音楽家)が、勝手に編曲(『扶桑歌』の前奏部で『抜刀隊』を挟み込む)して発表した作品なのだ。
なぜ作曲家名を隠してまで演奏したのか。その理由を、「昭和18年、第二次世界大戦中、内閣情報局が敵性国家の音楽一掃を命じたとき、アメリカ・イギリスはもちろん、いくら昔、日本陸軍に奉職していた楽長とはいえ、フランス人の作曲も対象になるはずですが、陸軍の象徴たる『分裂行進曲』が消滅しては困るので、作曲者の名を伏せて堂々と演奏しました」(『日本軍化全集』音楽之友社、1976年)とある方が証言している。
問題なのは、シャルル・ルルーは『陸軍分裂行進曲』を作曲していないということだ。「いない」にもかかわらず、一方的に「いた」とする軍部の身勝手さ。問題が生じる可能性があると認識しつつ演奏した。当時日本の作曲家による行進曲(陸軍の)は数多くあったものの、『陸軍分裂行進曲』をしのぐ行進曲はない。それでも使うべきではなかったと私は思う。
日本文学の評論家江藤淳は、『南洲残影』のなかで、「(天皇が乗る)白馬の前を行進して行く諸隊は、必ずしも勝利に向かって進んで行くのではない。だが、それは必ず死と滅亡に向かって進む。だから『分裂行進曲』は哀しいのである……」と評している。私は拙著で、「『陸軍分裂行進曲』は、江藤淳の言葉を敷衍(ふえん)すれば『葬送行進曲』だった。出陣学徒は死と滅亡に向かって進むために、『陸軍分裂行進曲』を必要とした。だから哀しく、心に染みたのだった」と結んだ。
出陣学徒が敵性音楽で戦場に送られたという事実をどのように考えればいいのだろう。不思議なことに私の周辺(とくに大学の同級生)に至っては、「別に…」という声が少なくないのだ。陸上自衛隊朝霞駐屯地で行われた「観閲式」でも、堂々と「(この曲は)ルルー作曲の『分裂行進曲』です」とアナウンスされ、楽譜にも「ルルー作曲」と明記されている。何度でもいう。ルルーはこの曲を作曲していない。無言館に収められた作品の作者の何人かは「あの日」、この曲で行進したのではないか。遺作と遺品の間で今も無念の思いを抱きながらさまよい続ける戦没画学生。作曲者不明のまま成仏できずにさまよう『陸軍分裂行進曲』。戦没画学生の親、戦争体験者の多くは鬼籍に入られた。親を施設に入れ、その後面会にも行かない(姥捨て山状態)子どもを身近に見るにつけ、無言館に眠る戦没画学生の親の心中を察すると慟哭(どうこく)を禁じ得ない。
*参考資料『無言館ノオト――戦没画学生へのレクイエム』(窪島誠一郎 集英社新書)。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。