新発見、磐梯山1888年噴火の遺構・遺物(前)

福島自然環境研究室 千葉茂樹

 福島県在住で自然環境問題を中心に情報発信をしている千葉茂樹氏から、7月1日に学術誌に掲載される論文を共有いただいたので紹介する。

はじめに

 磐梯山は恐ろしい火山で、今から137年前の1888年(明治21年)7月15日に大爆発を起こし、500人余りが犠牲となった.その犠牲者のうち400人以上がいまだに裏磐梯の土の下に眠っている。今回紹介する報告は、「これまでの研究で見落とされてきたもの」で、初公開である.

 今年も、その7月15日を間もなく迎える。磐梯山1888年の大災害を皆さんに知っていただきたく、この記事を書いた.

 最近、九州南部では、新燃岳の噴火、トカラ列島の諏訪之瀬島の噴火、悪石島付近の群発地震が、立て続けに起きている。本記事を読んで、過去にあった大災害を知っていただき、同様の事象が起きた際に「いかにして回避するか」を考える一助になればと思う。現在、九州で起きている事象が、大規模災害に至らないことを願う.

 福島県にある磐梯山は風光明媚(めいび)で、とくに裏磐梯の五色沼などの「神秘的な湖沼群」は有名である。写真の沼は、1888年爆裂火口内にあり、濃い緑色が混じった乳白色をしている。私は地質調査で偶然目にしたが、この場所は極めて危険で、入り込む人はまずいない。ここ数十年でこの沼を見たのは、私だけだと思う。この場所には、同様の神秘的な色の沼がいくつかあった。五色沼より美しかった。

 話は戻るが、磐梯山は恐ろしい火山で、今から137年前の1888年(明治21年)7月15日に大爆発を起こし、500人余りが犠牲となった。その犠牲者のうち400人以上がいまだに裏磐梯の土の下に眠っている。今回ここで紹介する報告は、「これまでの研究で見落とされてきたもの」で、初公開である。

新発見の資料

 私は、新たに磐梯山1888年噴火災害の遺構・遺物2点を発見し、地質学の学会に報告した。7月発行の学術誌「地球科学」に2編が掲載される。以下、順に紹介する。

今回の報告

  • 1:磐梯火山1888年噴火の遺構—三ツ屋の墓石群—
  • 2:磐梯火山1888年噴火災害の文化地質学的遺物―長坂の霊璽(れいじ)―

 これらが掲載された「地球科学2025年第3号」は、学会会員には7月の発行に合わせて配布される。

 また、ネット上で見るには、若干時間が空くが、日本の学術論文の集約サイトJ-Stageで、9月(論文等の公表から2カ月後)に閲覧が可能となる。

 なお、私の磐梯山関連の論文や記事は、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPにすべて掲載されている。

磐梯山は恐ろしい火山

 「磐梯山」で連想するのは、「猪苗代湖に浮かぶ磐梯山」や「神秘的な五色沼」などであろう。

 確かに、現在の磐梯山は美しい。しかし、磐梯山は「恐ろしい火山」であることを忘れてはならない。

 私は、1979年、大学3年生の時から、磐梯火山の地質調査を行っている。2001年には、木村純一氏(海洋研究開発機構)の指導の下、磐梯火山の火山活動史の総括論文を出した(千葉・木村2001,全31ページの論文)。それ以降は、磐梯火山1888年噴火に関する文化地質学的研究(地質学と人との関わりの研究)を行っている。

 なお、以下の話のなかに、「磐梯火山」と「磐梯山」が出てくる。磐梯火山は火山体そのものを指し、磐梯山はそのうちの1つの峰を指す。

 磐梯山の火山活動史(形成史)について簡単に触れる。磐梯火山は、現在3つの峰「磐梯山」「櫛ケ峰」「赤埴山」からできている。1888年の噴火までは、「小磐梯山」もあった。

 火山は、マグマを噴出して成長するが、一方で山体を破壊する。磐梯火山も同様であった。現在の磐梯火山の姿に、古い火山体「古磐梯火山」と新しい火山体「新磐梯火山」を見ることができる。詳しく見ると、「古磐梯火山」は、約35~6万年前の活動で形成された。その後の活動で、破壊も起き山体の多くを失った。櫛ケ峰と赤埴山は古磐梯火山の残骸である。約6万年前以降は、火山活動が穏やかになった。約3万6,000年前、再び大規模な活動が起こり、「古磐梯火山」の南側(猪苗代湖側)が吹き飛んだ。山体の岩が粉々になり、南西方向に流れ下り、会津若松市の東縁まで達した。これを山体崩壊という。一方、山には大きな凹みができた。これを馬蹄型カルデラ(ポルトガル語で鍋底の意味)という。その後、カルデラ内でマグマが噴出し、現在の磐梯山ができた(1888年の噴火までは「大磐梯山」と言われた)。これと同時期に、北側に「小磐梯山」ができた。これが「新磐梯火山」である。その後、1888年の噴火により、小磐梯山が失われた。

1888年(明治21年)の大噴火と災害

 まず特筆すべきは、1888年の噴火による犠牲者数約500人は、明治以降の「日本の火山災害で最大の数」ということである。

 1888年(明治21年)7月15日、山体の北側にある小磐梯山付近で水蒸気爆発(マグマが直接関係しない爆発)が起きた。何度か爆発しているうちに小磐梯山が耐え切れずに壊れて北麓へと流れ下った。 

 ちょっと解説を入れると、磐梯火山の地下にマグマが上昇してきたが、地表に達し噴火する力はなく、地下にとどまった。そこに地下水が流れ込み、激しく沸騰し大量の水蒸気が発生した。この水蒸気が、小磐梯山の山体に大量にたまった。要するに、「発酵してガスで膨れたパン生地の状態」になった。そして、地表の一番弱いところから、水蒸気が噴出し岩を吹き飛ばした。これが水蒸気爆発である。爆発が始まると、この破れた部分から水蒸気が次から次と噴出した。ついには、小磐梯山の根っこ「北麓」からも水蒸気爆発が起き、小磐梯山は壊れながら北麓に流れ下った。これを「岩屑(がんせつ)なだれ」という。山をつくっていた岩の屑(クズ)なので、液体の水はほとんど含まれていない。 

 小磐梯山の壊れた岩屑は、高速道路の車並みのスピードで、北麓に流れ下った。当時の裏磐梯は、渓谷だらけで谷川がいっぱいあった。そこへ流れ込んだ岩屑なだれは、渓谷の水と混じり、「岩と泥と水」の混じった「泥流」に変わった。そして、北麓から東麓に流れる長瀬川に沿って南に流れ下った。その先にあったのが、今回報告の長坂や三ツ屋の集落であった。 

このようにして、現在の裏磐梯ができた。このときの死者・行方不明者は約500人で、このうち死体の発見数が約80体である。すなわち400体以上が、今でも裏磐梯から長坂の地下に眠っている。

(つづく)

◎本記事で使用した画像は、千葉が「撮影したもの」「作成したもの」「所有しているもの」である。また、渡部房市氏から、本人および霊璽の画像使用の許可をいただいた。


<プロフィール>
千葉茂樹
(ちば・しげき)
千葉茂樹氏(福島自然環境研究室)福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。

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