「八女のクリントン」と呼ばれた立憲・野田国義氏、落選の衝撃

 20日に投開票された参院選で、全国でも有数の激戦区となった福岡選挙区(立候補者数13人、改選定数3)では、3選を目指した立憲民主党現職の野田国義氏が敗れた。34歳で八女市長に当選し、「八女のクリントン」とも呼ばれた同氏の遍歴と政治姿勢を振り返りたい。

公認をめぐる立憲県連で紛糾

 今回の参院選は野田氏にとって「負けられない戦い」であった。3選を目指して立候補にこぎつけた経緯も容易なことではなかった。まずこのことについて述べたい。

 参議院は6年に1回の改選だが、立憲では、野田氏と、元民放アナウンサーの古賀之士氏が現職であった。

 ちょうど1年前、立憲内部では、「野田氏の3期目はない」という声が少なからずあった。そこで党県連は公募を行うことにした。野田氏に対する評価が県内の各総支部などで「功罪様々ある」ことを受けたものだが、7月の常任幹事会では、公募期間が短いなどの批判も出ていた。

 公募は県内11ある総支部から複数の推薦があることなどが条件となっており、締め切りは2024年8月5日と1カ月もない。

 県連幹部は「さまざまな声を受けてそれを取り入れて公募としたので、よかったのではないか」と述べていたが、常任幹事会に出席していたある議員は「結論ありきで、代表がこれで行きますと押し切った形」と述べ「城井代表は普段はああいう言い方をしないが、今回に限ってなぜ」と疑問を感じたという。

立憲・国民の2議席獲得を目指した連合

 ある福岡市議は「最初から対象を狭めず、さまざまな候補者が出ていいと思います。そのなかからふるいにかけ、議論を重ねて慎重に選ぶことが大事ではないでしょうか」と語った。
支持団体の連合福岡のなかにも野田氏の3選に異論があったが、紆余曲折を経たうえ立憲民主党福岡県連(城井崇代表)は、11月の常任幹事会において、参院選に現職の野田氏を擁立することを発表した。

 連合福岡の藤田桂三会長は「福岡から与野党逆転を目指す」(24年11月9日会合)と述べたが、この時点で国民民主党も候補者選定を進め擁立することを決めており、参院選の趨勢次第では、旧民主党に由来がある両党の票が分散し、共倒れとなるリスクは十分に予想できた。結果として立憲・国民共倒れとなったことについて連合福岡の責任はどのように考えるのだろうか。

 国民は、3月に宇宙開発事業を展開するSpace BD(株)の事業開発本部長などを務めた川元健一氏の擁立を決定し、連合福岡も「立憲・国民ともに当選する」ことを目指して動き出した。

参政党の台頭と地元での批判

 昨秋の衆院選で「手取りを増やす」ことを掲げて躍進した国民は勢いづいていた。立憲関係者は「現職の強みはあるが、若さに加え、減税をアピールする国民に流れがある」と語っていた。ところが参院選を目前として、比例候補者の擁立問題で国民は失速した。

 このとき、新たな勢力が台頭しつつあった。「日本人ファースト」を掲げた参政党である。同党については、ほかの記事に詳細は譲りたいが、「本当の保守」を自称してきた野田氏にとって、わかりやすいキャッチを打ち出した同党の存在は選挙戦が始まると大きな脅威となっていった。

 野田氏自身、「チェンジ」「変えてみませんか」「義憤」という市民に分かりやすい言葉を用いて、1993年に八女市長選に当選して以来、数々の選挙戦を勝ち抜いてきた。政治の師であり、かつて秘書として仕えた古賀誠元自民党幹事長を仮想敵に位置付けて、八女市長を辞職後、09年の衆院選で、古賀氏に敗れたものの、比例九州で復活当選して、13年の参院選に当時の民主党から立候補して、自民の松山政司氏に次いで2番手で初当選した。

 16年の参院選より、福岡選挙区は3人区となり、自民・公明・立憲(当時は民進党)の「指定席」とされたが、22年の参院選のさなかに安倍晋三元首相が銃撃を受け、死去し、大きく政界の構図が変化した。旧統一教会問題や裏金問題の発覚により、自民党の支持率が低下し、野党第一党の立憲は勢いづいた。野田氏も自民批判の急先鋒にいた。

 しかし、地元では野田氏への賛否両論が渦巻いていた。

 「野田は俺たちを裏切って立憲に行った。八女市長時代は自治労とがんがんやりあっていて、俺たちはその姿勢に共感して野田を応援したし、福岡の旧民社党の集まりにも呼びよった。信義が感じられん。俺たちが集めた名簿を返せといいたい」

 激しい剣幕でこう語ったのは、元ゼンセン同盟(UAゼンセン)の幹部で、八女市の隣、筑後市在住の田中良一氏。田中氏を取材したのは2年前のことである。

 UAゼンセンは、連合(日本労働組合総連合会)の構成産業別(産別)労働組合における最大組織である。そして、連合において最も右寄りの立場をとる組合としても知られ、憲法改正や外国人参政権反対などを主張する。

 野田氏は13年の参議院選挙のとき、福岡市内で開催されたゼンセンの集会に出席していた。しかし、多くの参加者は冷ややかな反応だったという。田中氏によると集会はゼンセンの組織内候補、川合孝典氏の決起集会で、「野田氏が何をしにきたのか」という空気感が強かったという。そして民間労組では、アベノミクスへの評価があり、共産党への警戒感も公務員労組以上に強かった。野田氏の姿勢が容共的とみられたようだ。

 民間企業は経営に失敗すれば倒産の危機に陥り、従業員とその家族の生活に影響をおよぼす。雇用を確保するためにも生産性を上げ、労使一体で企業の成長を進めていかなければならない。そうした立場からすると、野田氏の姿勢は自分の生活、給料のために政治家をやっているように映る。

 八女市議会議員・牛島孝之氏は、野田氏の落選について「八女でも野田氏への賛否はあり、今回の結果は民意と思う」と述べたうえで「市長のとき、結局何もしなかった。新幹線駅(筑後船小屋駅)に反対したり、今も『一般国道3号広川八女バイパス』に反対したり、目立つことはしますが、今まで地元に何をもってきたのか。八女地域にもたらしたものはありません」と痛烈に語った。

 一方、野田氏を応援してきた1人が春日市選出の県議・室屋美香氏で、県議選で野田氏の応援を受けたことなどを選挙戦でも述べていた。

 選挙戦で野田氏は麦わら帽子をかぶり、「八女郡広川町の専業農家の長男で農業の厳しい状況はよく理解している」とアピールしたが、参政党や国民民主党が猛烈な勢いで追い上げていった。野田佳彦代表が14日と18日の両日、急きょ福岡入りし、野田氏への応援を呼び掛け、連日党幹部が福岡入りして野田氏への支持を訴えるなどしたがおよばなかった。

 選挙戦の状況を見る指標として、集会や街頭演説の参加人数と年齢などの属性があるが、自民・公明はもちろん、参政・国民両党に比べても参加者が少なく、街頭集会で若い世代をほとんど見かけなかった。

 「八女のクリントン」と呼ばれ34歳で八女市長に初当選した野田氏は、選挙戦で訴えた動画を見たが、かつての精悍な姿ではなかった。
https://www.facebook.com/reel/30508614348753284/?s=single_unit

 記者は八女市出身で、八女市長から民主党議員時代の野田氏を応援した1人として、時代の流れではあるが、寂しいものを感じずにおれなかった。「今までお疲れさまでした」と申し上げたい。

【近藤将勝】

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