2024年05月01日( 水 )

権力の走狗に成り下がった鹿児島トップシェアの地方紙(前)

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(株)南日本新聞社

 「ミナミ」や「南日(なんにち)」の愛称で鹿児島県民に親しまれ、県内では8割超と圧倒的なシェアを誇る地方新聞「南日本新聞」。県内各地に取材拠点を設け、地域に根差した紙面づくりと情報発信に定評のある同紙だが、近年の発行部数は右肩下がりで推移。また、その報道姿勢も“権力の監視役”たる使命を忘れ、もはや権力の走狗と成り下がってしまっているようだ。

創刊は明治期、130年超の長い歴史

 九州の地方新聞としてはトップクラスの発行部数を誇り、鹿児島県内で広くその名を知られる「南日本新聞」。同紙を発行する(株)南日本新聞社は、鹿児島市の本社のほか、東京と大阪、福岡に支社を構え、県内の鹿屋、薩摩川内、霧島、奄美の4カ所に総局を、ほか17カ所に支局を配して県内全域を取材エリアとし、地域に根差した紙面づくりを行っている。

 同紙の歴史は、1881(明治14)年の「鹿児島新聞社」の設立と、翌82年2月10日の「鹿児島新聞」創刊に始まる。同紙誕生の背景にあったのは、77年の「西南戦争」を契機として鹿児島県下の青年層を中心に巻き起こった自由民権思想や、国会開設の世論、さらには西南戦争の戦役からの復興への思いだった。当初、同紙では中央政府攻撃の鋭い論陣を張っていたが、それが官憲の怒りに触れたことで、発行停止や印刷機械の押収、さらには主筆や記者が禁固拘留刑を受ける事態に。その後、同紙は自由主義を綱領とする九州改進党鹿児島部の流れを汲む政治団体「鹿児島同志会」に買い取られ、政党機関紙「鹿児島新聞」としての道を歩むことになる。

 一方、日清戦争後の資本主義の急速な発展による新たな時代の到来のなかで、地元経済界をバックとして1899年7月に、「鹿児島実業新聞」が創設。同紙は、政治的には厳正中立の立ち位置で、産業経済の発展をスローガンとして、新時代に即した商業新聞としてのスタイルを確立していった。その後、「鹿児島実業新聞」は1913年に「鹿児島朝日新聞」と改称。こうして、鹿児島県下に2紙が併存する時代が続いていた。

 だが、日中戦争の激化にともない、国によって1県1紙の統合策が強引に推し進められた結果、「鹿児島新聞」と「鹿児島朝日新聞」が統合。41年12月に鹿児島新聞社は匿名組合組織から(株)へと改組し、翌42年1月に鹿児島朝日新聞社と合併。社名を鹿児島日報社として、同年2月から「鹿児島日報」の発刊となった。そして太平洋戦争の終戦後、報道言論機関の機能が重要化するにともなって、46年2月、社名を(株)南日本新聞社へ、紙名を「南日本新聞」と改題し、再出発となった。

 その後、鹿児島県の地方紙としての地位を確固たるものにし、県内では実に8割超という圧倒的なシェアを有するに至った。発行部数は約30万部と、地方紙としては九州トップクラスで、全国でも上位に入る。

(つづく)
【坂田 憲治】

<COMPANY INFORMATION>
代 表:佐潟 隆一
所在地:鹿児島市与次郎1-9-33
設 立:1899年7月
資本金:4億8,380万円
売上高:(17/9)105億3,668万円

(後)

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